后退 返回首页
作者:喜多みどり
类型:乙女向 书籍样本 日文
出版:2016-12-02(角川书店)
价格:¥514 原版
文库:角川Beans文库
丛书:光炎のウィザード(5)
代购:lumagic.taobao.com
光炎のウィザード 選択は唯一無二 光炎のウィザード 選択は唯一無二 喜多みどり 角川ビーンズ文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載したりすることを禁止します。また、 本作品の内容は、底本発行時の取材・執筆内容に基づきます。  いったいこの生き物はなんなのだ。 『あたし死ぬの』  蓑虫がそう言った。  正確には蓑虫ではない。病に倒れた少女だ。  毛布を重ねてかぶせただけではすぐにはいでしまうので、きっちり身体に巻き付けてやっているのだ。それが、少し蓑虫に似ている。  まだ十にもならない少女の声は、老人のそれのようにしわがれていた。  しぬの、と言いつつも、彼女はそれがどういうことなのかまるで理解していない様子だった。ただ、乾いてひび割れた唇から、ぼんやりと言葉を押し出している。まるで夢の中にいるかのように。夢の中にいた方が幸せなのかもしれないが、彼は苛立たしかった。  だが。 『しぬのね……』  次の瞬間、突然彼女の目が潤み、瞬きとともに涙が一粒、二粒と頰を流れた。後は堰を切ったようだった。彼女は震え、泣きじゃくり、意味のわからない言葉を呟き、首を振り、髪をかきむしり、その手を伸ばし、ちょっとした恐慌状態に陥った。  まただ、と彼は思った。  少女は唐突に泣き、意味もなく微笑み、彼にはその行動の予測がまったくつかなかった。さっき諦めたかと思えば今度は死にたくないと泣き叫ぶ。理解に苦しむ生き物だった。それでいて放っておくことはできない。まあ、実際のところ彼女を放っておけないのは彼女の問題ではなく彼の問題だったのだが、彼はとりあえず自分の問題には目を瞑り、何もかもを彼女のせいにした。  いったいこの生き物はなんなのだ。  彼は苦々しい思いとともにもう一度同じことを考え、それでもその小さなひからびた手を握った。結局のところもはや彼にできるのはそのくらいしかなかったのだ。彼は彼女を救えない。この小さな命一つ、救えないのだ。絶望するよりはマシだったので、彼はあらゆるもの、つまりわけもわからずしぬのねと呟く彼女に怒り、また事実を理解して絶望する彼女に怒り、それをぶつけるように握る手に込める力を強くした。  強く手を握られ不意にきらめいた少女のアイスブルーの目に、彼の何ものかを堪えた顔が映っていた。  時が流れて、その生き物はそれなりに成長して、それでも幾らかは子どもっぽいままで、やっぱり不可解な行動をとり、彼のすぐ隣で生きていた。ああ、腐れ縁とはこういうことか、と彼は最近思うようになった。だからきっとこれからもなんだかんだで自分の隣にいるんだろうと。まあ、あの時捕まったのが運の尽きで、これはもう仕方がない。諦めた。  だが、そうではなかったのだ。  これは腐れ縁などではなかった。  離れて、二度と会わなくなるのは、腐れ縁とは言わない。  その決断をした時、彼は寂しいと感じる自分に気付いて、思わず少し笑った。  そして目の前にあった罪のない椅子を蹴り飛ばし、それだけですべてを飲み込んだ。 1  リティーヤは死んでいた。  研究室の椅子に腰掛け、頭だけを共用の長机の上に載せ、腕を下にだらんと垂らして、精神的に死んでいた。  第一発見者はテヨルだった。リティーヤの先輩で、チョコレート色の肌をした女性魔術師だ。テヨルはばたばたと慌ただしく研究室に入ってきたが、リティーヤを見るなりぎょっとして立ちすくんだ。 「な、何やってんだい」 「…………」  リティーヤはドアの方に顔を向けていたのでテヨルの姿を見ていたが、死んでいるので返事はしなかった。 「ちょっと、リティーヤ」 「…………」 「こら」  ぽか、と頭を叩かれた。  リティーヤは機械的に口を動かした。 「あたしは死んでるのでお返事できません。そっとしておいてください」 「…………どうしたのさ」 「いーんですいーんです。あたしは死人です」  リティーヤはうじうじと言い、額を机にこすりつけた。 「あ、リティーヤここにいたの」  リティーヤは新たにかけられた声にぎくりとして思わず顔を上げた。入ってきたのは、この研究室の長である高位魔術師、ロードマスターだった。大陸最大の魔術師組織《学アカ園デミー》の副学長という肩書きにも拘わらず、彼は今日もぼろ切れのような恰好をしていた。よれよれのシャツはズボンからはみ出し、継ぎの当たった上着は肩に引っかけただけ、勿論タイなんて影も形もない。顔は伸ばしっぱなしの髪とヒゲと瓶底のような眼鏡でほとんど隠れていたが、彼の心が今好奇心と悪戯心でいっぱいだというのは浮かぶ笑みから一目でわかった。  彼は弾む声で尋ねてきた。 「どうだった? ほら、論文の第二回中間発表──」 「やめてえええええええええっ」  リティーヤは絶叫して耳を塞いだ。 「中間発表?」 「うん。ほら、専門課程修了のための論文。あれの中間発表会だったんだよ」  耳を塞いでいるのにテヨルとロードマスターの会話は漏れ聞こえてくる。リティーヤは耳を塞いだままぶんぶんと首を振った。 「聞こえないっ! むしろなかった! 発表会なんてなかったもん! ああああっ、今日という日を抹消したいっ!」 「……で、この有様はなんですか」 「噂によると相当にひどい出来だったみたいで。指導部がカンカンになって……いや、あれは怒りを通り越して衝撃のあまり精気が抜けていたというか。まあ、とにかくそういうことらしいよ。ね、リティーヤ」 「あたしは知らないって言ってるじゃないですかああああああ!」  リティーヤは諦め、耳を塞いでいた手を離して叫んだ。ロードマスターは何が楽しいのかへらへらと笑っている。 「君でも発表会失敗して落ち込んだりするんだねえ。じゃあ早速だけど報告してよ。どうひどかったの?」 「塩持って待ち構えてる相手に傷口を見せろってんですか!?」 「いやいや、心外だなあ。ボクは忙しい執務の合間を縫って、ヤムセの代わりに話を聞いておいてあげようとしてるんだよ」 「準備手伝ってくれなかったくせにこんな時だけ教育者面しないでくださ──いっ!?」  テヨルが、持っていたファイルで無造作にリティーヤの頭を叩いた。テヨルは小柄ながら結構力が強い。かなりいい音がした。 「んな、何をするんですかっ」 「手伝ってもらえなかった、って言ったって、ぎりぎりまで準備してなかったのはあんただろ」 「う」 「それにロードマスターは一応室長なんだから、あんたの研究の進行状況を確認するのは義務みたいなもんだよ。さっさと報告しな」 「ううっ」  リティーヤは呻くことしかできなかった。テヨルの言葉はまったく正しいのだが、テヨルの後ろでべえと舌を出しているロードマスターは全然正しくない気がする。 「それから」  テヨルはくるりと振り向き、まだへらへらと笑っていたロードマスターの鼻先に指を突きつけた。 「リティーヤはうちの研究室の人間なんです。あんまり恥ずかしい発表させないでください」 「ええっ!? それボクの責任?」 「ヤムセもバドもいないんですよ。私は忙しいですし」  テヨルはしばらく前から治安維持局に復職していた。十日ほど前に起こった襲撃事件の後始末に追われ、ほとんど研究室に来ない。リティーヤが彼女と顔を合わせたのは二日ぶりのことだ。 「ボクだって忙しいんだよ。リティーヤの面倒まで見ろって言うの?」 「……午後は暇そうにハトに餌やってましたね」 「ちょっとした余暇じゃないか。最近手厳しいよ、テヨル」 「これまで少し甘やかしすぎてたんです。リティーヤへの示しもつきません。いいですか、私はこれから会議でたぶんもう戻れませんから、後はお願いします」  言うだけ言うと、テヨルは部屋の奥にある自分の机から書類を取り上げて出て行った。 「テヨルが冷たい……」  ロードマスターはぴしゃりと閉じられたドアを眺めて悲しげにそう呟き、リティーヤは長机にだらしなく顎を載せて言った。 「忙しいんですよ、たぶん凄く。防衛態勢見直すとか、そういう話ありましたもん」 「まあね。ところで──」  ロードマスターはリティーヤの方を振り返り、にっこりと笑って言った。 「そろそろ報告してもらおうかな。中間発表会のこと」 「…………」  空は晴れていたが冬の日は短く、窓の外に迫っている夕暮れ時の明るい日差しも、すぐに消えてなくなることだろう。  リティーヤは抵抗を諦め、ランプに火を入れることにした。  本来彼女の指導をすべきヤムセは、三日前から《学園》にいない。  任務を受けて、《風と八月党》の本拠地のある大陸西部へ向かったのだ。 《風と八月党》は、十日ほど前に《学園》本部を襲撃し、〈昼〉の台座の地図を奪おうとした集団だ。《学園》は彼らの最終的な目的を阻止することには成功したが、やられっぱなしでは《学園》の沽券に関わる。《風と八月党》は《学園》に比べればごく小さな、新しい組織で、彼らにいいようにされて黙っていたのでは他の組織や《学園》の支援者、協力者たちに対して示しがつかないのだ。  そこで《学園》は正式な抗議と報復のために魔術師のチームを西部にある《風と八月党》の本拠地へ送り込んだ。渉外担当官でよその魔術師組織との交渉事や荒事を主な仕事とするヤムセの名前も、当然のようにそのメンバーリストに入っていた。  で、三日前いきなりリティーヤの前からいなくなった。  それは本当に突然のことで、リティーヤは最初、また先生は甘いものでも食べに行ったんだろうなあ程度に思っていた。だがなかなか彼が戻らないので、あちこち捜して困り果て、最終的には研究室に来たロードマスターから事情を教えてもらったのだ。話を聞いてリティーヤは愕然とした。ヤムセが任務でふらっと学外に出るのはそう珍しいことでもなかったが、リティーヤは論文の中間発表を三日後に控えている。正直、ヤムセの助けなしでは結果は見えていた。  ──中間発表会の詳細な結果を聞いたロードマスターがさすがに顔を青くするのを横目で眺めつつ、リティーヤは今頃先生はどこで何をしているやら、と考えていた。  そして、彼が帰ってきた時、自分はどんな顔で迎えたらいいのだろうか、と。  結局ヤムセが帰ってきたのは、中間発表会から、ちょうど十日後のことだ。予定より随分早い帰着だ。そういう場合は大抵ろくでもない事態が発生して任務を果たせず帰還せねばならない時なのだが、今回もやはりそうだった。 《風と八月党》の本拠地が、すでにもぬけの殻だったらしいのだ。  ロードマスターからその辺りのことを教えられたリティーヤは、あああああ、まずいなあと思った。任務失敗となれば、ヤムセは絶対に機嫌が悪い。そして、その機嫌の悪い彼に、リティーヤは最悪な報告をしなければならないのだ。 「なんだこれは」  ヤムセは荷物も置かず研究室にやってきた。いつにも増して不機嫌そうに眉間に皺を寄せた彼に、リティーヤは求められるままにおそるおそる中間発表会の報告書を渡し、返ってきた答えがそれだった。  リティーヤは、両手の指先をもじもじとつつき合わせ、視線をさりげなく逸らして答えた。 「え~と……中間発表会の報告書です……先生いなかったから」 「それはわかっている。そうではなくて、話していたテーマとまったく違うのは何故だ?」 「うん……その、だって色々質問したかったのに、先生が発表会直前で姿くらますから、まとまらなくて……気がついたら……」 「気がついたらテーマが『《始原のキツネ》のペットとしての有用性』なんてものになるのか!?」 「だから先生がいきなりいなくなるのが悪いんじゃないですか!」  リティーヤもついつい声を荒らげてそう叫んだ。  すると珍しいことに、ヤムセが言葉に詰まった。彼も、さすがに直前になっての不在は申し訳なく思っていたらしい。 「……わかった。とにかく、これから一週間でテーマを練り直すんだ。指導部にもう一度チェックしてもらう」 「う……はい」  報告書を突っ返されて、リティーヤは渋々頷いた。専門課程修了までにかかる年数は人それぞれで、三年足らずで正魔術師になる者もいれば、その倍かかる者もいる。だが、この一年目の終わりの中間発表会でこうまでつまずく人間は、あまりいない。リティーヤだって、さすがにちょっとまずいかな、と思っている。  やっとオーバーコートについた雪を払い始めたヤムセを見上げ、リティーヤは少しだけ唇を突き出した。 「せんせー、ちゃんと手伝ってくださいよ」 「わかっている」 「勝手にどっかいったりとかもうごめんですからね」 「……わかっている」  呟くように答えるヤムセの目には一種の真剣さがあって、リティーヤもそれで納得することにした。彼だって、好きであちこち引っ張り回されているわけではないのだ。頼りにしている時に突然いなくなられるのは、リティーヤとしては非常に困るが。  リティーヤは、まず論文の資料集めのために研究棟の書庫へ行くことにした。ヤムセが先にドアを開け研究室を出て、リティーヤも彼の後を追い──その時、彼の背中が、夢にまで見た虹ドロさんの背中に重なり、一瞬ぎょっとして立ちすくむ。  虹ドロさんは、七年前の冬、死にかけていたリティーヤを助けてくれた命の恩人だ。  指導教官であるヤムセと初めて出会った時、リティーヤは、ヤムセの中に虹ドロさんの名残のようなものを見出していた。 『おまえもいるか?』  たとえば、リティーヤの方にドロップの袋を出した彼のその言葉。 『ここがおまえの死に場所か?』  たとえば、壮絶な寒さの中で彼がリティーヤに問いかけたあの言葉。  あらためて思い返すと、彼と虹ドロさんには重なるところが多い。多すぎる。  それでも彼を虹ドロさんだと今まで考えて来なかったのは、リティーヤが虹ドロさんに出会った二一五年の冬、ヤムセ自身が極地遠征の調査隊に参加していたと言っていたからだ。  ところが、ここに来て事情が変わった。  リティーヤがたまたま見つけた遠征隊の記録に、彼の名前がなかったのだ。  勿論、だからといって、即ヤムセが虹ドロさんである、などという図式は成り立たない。ちょっとした手違いで名前が載っていなかっただけかもしれないし、もし本当に遠征隊に参加していなかったとしても、彼が虹ドロさんだとは限らないのだ。  それでも。  今、リティーヤは九ヶ月前の自分の直感をたびたび意識している。  だが、ぎょっとして立ちすくむのはそのせいではない。彼が虹ドロさんかもしれないと疑っているせいではない。 「どうした」  リティーヤがついてこないことに気付いてヤムセが振り返った。リティーヤは急いで首を振り、彼の隣に並ぶ。  そうしてまた歩き始めた彼の横顔をちらりと見る。  不機嫌そうに眉根を寄せ、目をやや細めたしかめっ面。大抵変わらないその顔に、ごく稀に微かだが笑みが浮かぶことがある。面倒臭がりで傲岸不遜、傍若無人を体現したような男で、リティーヤが虹ドロさんに抱いていた優しい人物像とは似ても似つかない。  それでも、彼の姿が虹ドロさんと重なる時、リティーヤはあまり嫌な気分がしなかった。  それがごく当たり前のことのような気がして、パズルのピースがぴたりと当てはまったような感じがして──心地よくすらあったのだ。  出会った頃には、想像もしなかった心境だ。  自分のその心の動きに気付いたからこそ、リティーヤは驚き、立ち止まってしまったのだ。 「……変なの」 「何か言ったか」 「いいえなんでも」  自分は、彼を信頼し、好ましく思っていたのだ──自分自身で考えていたよりも、ずっと。  だが。  もしも万が一リティーヤの予測が正しかったとしたら──彼はどうして今まで何も言ってくれなかったのだろう。ヤムセにも虹ドロさんの話はしているのだ。これまで、自分がその虹ドロさんだと言う機会は幾らでもあったはずだ。  もしかして、忘れているのだろうか?  いや、ヤムセが虹ドロさんであったのなら、彼はその時リティーヤのそばにいた《キツネ》と戦ったはずだ。《キツネ》とのことまで忘れるわけがない。行き倒れた子どもなどごく当たり前の存在だから、忘れられても仕方ないが──。  いやいや、本当は違うなとリティーヤは思う。  忘れられても仕方ない、なんてリティーヤは思っていない。  彼がリティーヤを助けようとしたあの数日にわたる時間は、リティーヤだけではなく、彼にとってもまた、重要な意味を持つはずなのだ。助ける者と、助けられる者と──それ以上の何かが、あの時、彼らの間にはあったはずなのだ。 『あたし……しぬのね……?』  確かな、繫がりのようなものが。  少なくともリティーヤはそう思っていた。  ところが、彼はそれを忘れている可能性がある。  彼にとっての自分の存在はその程度のものだったと、彼にとってはリティーヤとの繫がりなど最初からなかったと、言われたようなものなのだ。  これはちょっと許せない。  リティーヤは悲しいような、腹立たしいような気分になって、虹ドロさんと確定したわけでもないヤムセを睨みつけた。その視線に気付いて、何故自分が睨まれねばならないのだとヤムセは顔をさらにしかめていた。 2  先の襲撃事件以来、学内には慌ただしい雰囲気が漂っていた。  なんでも、襲撃時に《風と八月党》が残していった魔術的な仕掛けがあったとかで、治安維持局の魔術師たちが中心になってその解除を進めているのだ。テヨルも大忙しで、発表会以来姿を見せていない。  とはいえ、リティーヤの日常は変わらない。 「うう……なんにも思いつかない……」  今日も今日とて、リティーヤはふらつきながら朝の研究棟の廊下を歩いていた。ここしばらくは論文テーマのことばかり考えていて、夜もあまり眠れない。今朝はついに夢にまで論文が出てきた。提出期限と定められた一週間が長いような、短いような……まあ、なんだかんだ言っても、あと四日しかないのだが。  ふらふらと研究室の鍵を開けようとしたところで、異変に気付いた。  鍵が開いている。ひょっとして、昨夜かけ忘れていたか──リティーヤはそう思いながら中に入った。入ったところでぎょっとする。 「おはよ」  ロードマスターが、長机のそばに置かれた椅子に足を組んで座り、優雅にコーヒーを飲んでいた。それだけならばリティーヤもここまで驚かない。  彼はいつもの小汚い恰好ではなかった。  無精ヒゲは剃り落とし、髪も適当な長さに切り、櫛を入れている。着ているのもよれよれのコートではなく金モールで飾られた純白の礼服で、目に眩いほどだった。 「……どしたんですかそれ」 「式典があるんだよ。抜け出したいけどね、うまい口実が見つからなくて」 「……仮装大会かと思いました」 「前にも見てるじゃないか、ボクの正装」 「見てますけど、毎回思います。っていうかロードマスターのそれはもう詐欺ですね」 「……詐欺じゃないもん。人間性が表れてるもん」 「それで、どうしたんですか、今日は。朝来るなんて珍しいですね」  ロードマスターは暇そうに見えても副学長の一人だ。激務に追われて、学内にいても研究室に顔を出すことはそう多くない。彼は、長机に置いてあったクッキー缶からクッキーを摘みながら答えた。 「ヤムセに会いに来たんだ……ん? これおいしいね」 「先生が買ってきた限定販売のやつですよ。あ、先生なら今日は午後からです」 「えー……しょうがないな。後で来ようかなあ。でも《道ガイド標ポスト》の分析もあるし……」 「《道標》……」 「ああ、見つかったんだよ」  一瞬それが何を意味するかわからなくて、リティーヤは間の抜けた顔をした。口を開け考え込んで、何やら聞き覚えのある言葉だと気付く。そう、覚えはある。 《道標》。  長距離移動魔術を使う際に、必要不可欠な儀式具だ。  かつて移動魔術が全盛を極めた《ヘビの一族》の時代、彼らはあまりに便利になりすぎたその魔術から自分の身や、財産や、家や、都市を守るために、幾重にも魔術障壁を張り巡らせ、よそ者が簡単には自分の領域に転移してこられないようにした。だが一方でその障壁に対抗するため、幾重にも張られた障壁を感知し、それらを避けて目的地に辿り着く方法も編み出した。  それが《道標》だ。これを目的地に置いておけば、その名の通り道標となって、障壁を避けて術者を目的地へと導いてくれる。 「ふーん。どこで見つかったんですか」 「学内」 「は?」 「《風と八月党》が仕掛けていったんだ。脱出用に最低もう一個は確保してるだろうなあ」 「……え」  リティーヤはそれがどういう事態を意味するのかに気付いて言葉を飲み込んだ。 「《道標》で学内に長距離移動しようとたくらんでいたんだ。彼らの次の侵入方法ってわけさ。こっちに情報与えないために、前回の脱出では使わなかったんだろうね」  リティーヤはやっと金縛りから解けて、声をあまり大きくしないように注意して言った。 「ちょっと、それってまずいんじゃないですか? あの人たち、今度こそ《地図》とか持っていくつもりですよね」 「うん。あとキミもね、たぶん」 「いや……そんな悠長に構えていていいんですか?」 「大丈夫。封印はしたから。ボクと他の《Aエース》位魔術師で」  あんだけ厳重に封じたら大丈夫だよー、とロードマスターはあっけらかんと言った。 「《風と八月党》にも、大した魔力の持ち主がいるんだろうなとは思うけどね。《道標》を使うにはその《主マスター》になる必要があって、それにはとても強力な魔力が必要だから。あ、でもね、《道標》にはいろんな情報が含まれるんだよ。情報は大抵暗号化されてるけど、解読に成功すれば、それがどこから来たのかもわかるんだ」 「……つまり?」 「つまり、ひょっとしたら彼らの別の本拠地の情報もわかるかも、ってことだよ。この間空振り食らったのとは別の、ね。で、彼らのお引っ越し先がわかれば、あらためて魔術師を送り込める。全員捕まえるなりなんなりすれば──」  そこで、ロードマスターは言葉を切ってリティーヤの顔を覗き込んだ。 「……どしたの?」  おそらく、彼女がちょっと暗い表情をしていたのに気付いたのだろう。 「……それ、またヤムセ先生が行くんですよね」 「うん。ヤムセって便利屋さんだから──あ。もしかして、ヤムセが心配?」  リティーヤは真剣な思いを込めて呟いた。 「いや……だって先生いないとまた論文の準備遅れますよ……」 「…………あー」 「……それに、まあ、怪我とかも心配ですし」  おまけのように付け加えたが、リティーヤだって、《学園》が《風と八月党》に対してどんな態度を取るのかはわかっている。本部をいきなり襲撃され、内部で暴れられたのだ。その上《道標》まで残していった。《学園》は自らにたてつく者を許してはおかない。《風と八月党》を徹底的に壊滅しようとするだろう。  争いになるのだ、結局は。  ロードマスターは俯いてしまったリティーヤの顔を今度は下から覗き込み、励ますように言った。 「大丈夫だよ。どーせヤムセなら傷一つ負わずに帰ってくるって。ボクも行くし」 「ロードマスターも?」 「うん。だって《道標》仕掛けてきたってことは、ボク並みの魔力の持ち主がいるんだもん。ボクが行かないと制圧はできないでしょ? ──あ、そうそう、キミにも話があったんだ」 「え?」 「ほら、キミ、《キツネ》の記憶にある都市を捜してたよね」 《キツネ》とは《始原のキツネ》。大寒波によって絶滅の危機にあった人類に魔術を与え、《グリーンワードの魔導書》についての知識を与えた、物言うキツネだ。彼はどういうわけかリティーヤにつきまとい、おかげでリティーヤはここしばらく騒動に巻き込まれているのだが─