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作者:はるおかりの,由利子
类型:乙女向 书籍样本 日文
出版:2016-11-02(集英社)
价格:¥616 原版
文库:Cobalt文库

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後宮陶華伝 首斬り台の花嫁は謎秘めし器を愛す 後宮シリーズ 集英社eコバルト文庫 後宮陶華伝 首斬り台の花嫁は謎秘めし器を愛す はるおかりの この本は縦書きでレイアウトされています。 後宮陶華伝 首斬り台の花嫁は謎秘めし器を愛す 目 次 第一章 青花は密やかに恋を語る 第二章 忘れえぬ恋とふたつの陶枕 第三章 星映しの馬は久遠の恋を誓う あとがき イラスト/由利子 第一章 青花は密やかに恋を語る  凱帝国、皇宮――久寧殿。  朱塗りの円柱が立ち並ぶ大広間で、異国の使節団をもてなす夜宴が催されていた。  食卓を彩る山海の珍味、優雅な管弦の調べ、綺羅をひるがえす美貌の舞姫たち。  贅を尽くしたもてなしは、まさしく天界のそれであったが、鬼淵国国王、凌神狼の関心を引きつけたのは、美食でも音楽でも、ましてや舞姫たちでもなかった。 (あの娘、公主だったのか)  神狼は七宝があしらわれた椅子にちんまりと腰かけている少女を見つめた。  華奢な体にまとうは極彩色の衣装。五色の糸で縫い取られた鳳凰と、咲き誇る艶やかな牡丹が互いの美を競い合い、銀襴の帯は柳腰をきらびやかに染め上げている。  癖のない緑の黒髪は半月型の髷を作って結われていた。大ぶりの垂れ飾りがついた黄金の簪が黒曜石を散らしたような結い髪に映える。輪になった鬢の影からは翡翠の耳飾りがちらちらとのぞき、淡雪よりも白い柔肌をいっそう匂やかに見せている。  凱の豊かさを象徴する華麗な装いは、あどけない花のかんばせとうまく調和していないようだ。服に着られている印象がぬぐえないのは、つややかな紅をひいた小さな唇が不安げに強張っているせいだろうか。あるいは、涙をこらえているふうに見えるせいなのか。  怯えているのだろう、と神狼は異国の姫君に同情した。  このたび鬼淵国が王自ら入朝した目的は、凱皇帝の公主を花嫁として賜ることだ。  しかも、過去の例のように宗室の傍系の娘や後宮の宮女を公主に仕立てた偽公主ではなく、正真正銘の皇帝の娘――真公主を王妃に迎えるため。 「凱皇帝には、年頃の娘が三人います」  隣席の烏烈が神狼に耳打ちしてきた。烏烈は亡き兄の息子だ。神狼にとっては甥にあたるが、兄亡き後、養子に迎えたので、今は義理の息子である。もっとも、烏烈は神狼より五つ年下の二十歳だから、父子というよりは兄弟に見えるらしいのだが。 「長女の鳳姫公主は十八、次女の夏艶公主は十六、三女の珠蕾公主は十五です」  烏烈は壇上の座席にいる公主たちを順に視線で指し示した。 「凱の婦女子は総じて脆弱で馬にも乗れないものですが、夏艶公主は明るく快活な性格で、幼い頃から馬に親しみ、毎年、皇帝の狩猟に同行して自ら獲物を狩っています。見目麗しいだけでなく、大病を患ったことのない健康体である上、母方は多産の家系です」  男子をたくさん産めるでしょう、と烏烈は太鼓判を押す。 「ただ、問題が一つ。昨年の鹿狩りで、さる若い武官と親しくなり、結婚を約束しているとか。皇帝は娘たちを可愛がっていますから、恋人と引き離してまで降嫁させるかどうか……」 「第一公主はどうだ? 恋人はいないのか?」 「私が調べたところでは、恋人はいないようですが……降嫁にふさわしいとは思えませんよ」  烏烈は声をひそめた。 「よく言えば、淑やかでおとなしい。悪く言えば、暗く卑屈そうな娘です。口数は少なく、従順といえば聞こえはいいですが、おどおどしていて覇気がなく、大国の公主らしい威厳に欠けています。馬には乗れませんし、狩りに出ても遠くから見ているだけで弓も扱えません」  鬼淵では、女たちも馬に乗るし、狩りもする。弓を巧みに操り、男たちにまじって軍勢に加わることもある。美しいだけの人形のような女は、鬼淵にはいない。 「馬にも乗れない手弱女は、鬼淵の暮らしに耐えられないでしょう」  正直に言えば、公主であれば誰でもいいが、恋人がいないというのが絶対の条件だ。想い人と無理やり引き離して連れていくつもりはない。 (あの娘なら、大丈夫だろう)  神狼は鳳姫を見つめた。長い睫毛の影になった左の目尻には、黒い涙をひとしずく落としたような泣きぼくろがあり、幼さの残る面差しにほのかな色香をそえている。  美姫には違いないが、淑やかさや従順さには惹かれない。神狼は何事にも臆せず、はきはき物を言う女が好きだ。ともに馬に跨って草原を駆け、狩った獲物を競い合うような女が。  亡き王妃、楚里歌はそういう女だった。 (好みじゃないから、かえって都合がいい)  二度と失敗したくない。胸が焼けるほど愛しい女は、娶りたくないのだ。 「皇帝は真公主を嫁がせることを渋っています。最悪の場合は偽公主で……義父上?」  神狼が席を立とうとして腰を浮かせると、烏烈はいぶかしげに眉根を寄せた。 「決めた。第一公主にする」 「……は?」  ちょうど歌舞が終わったところだった。  舞姫たちが御前を辞すのを待って、神狼は玉座の下に進み出た。恭しく跪いて頭を垂れる拝礼を済ませた後、広大な領土に君臨する賢帝を振り仰ぐ。 「謹んでお願い申し上げます、主上」  張りつめた静けさの中、朗々とした声音が響き渡った。 「第一公主さまを――我が王妃に賜りたく存じます」  刹那、宴席の空気が凍てついた。  凱王朝、光順二十一年十月。北方の騎馬民族、鬼淵の王が入朝した。  鬼淵王は姓を凌、名を神狼という。二十四人の兄を殺めて玉座を手にしたといわれる異郷の若き君主は、駿馬千頭、金五千両を献上して凱に求婚した。  凌神狼が花嫁に指名した公主は、光順帝の長女、高鳳姫。  のちに草原を平らげた鬼淵王が余の命と呼んで寵愛した純禎公主である。 「主上は鳳姫公主を嫁がせるおつもりなんですって」  陶磁窯から後宮に戻ろうとして回廊を渡っていたときだ。女官たちがこそこそとおしゃべりしているのを小耳に挟んで、鳳姫は立ち止まった。 「嫁がせるって、誰に? 鳳姫公主に縁談なんかあったかしら」 「なかったわよ。夏艶公主や珠蕾公主にはあったけど、鳳姫公主には全然なかったはず」 「それがあるのよ。とびっきりお気の毒な縁談がね」 「相手は誰なの?」  女官がきょろきょろするので、鳳姫は円柱の陰に身を隠した。 「鬼淵王よ」  肺を握りつぶされたように、息が止まる。  鬼淵国。北方の騎馬民族の国だ。獰猛で恐ろしい異民族だと聞いている。 「去年来た鬼淵の使節が公主の降嫁を賜りたいって申し出たのは知ってるでしょ」 「確か、偽公主じゃなくて真公主が欲しいって話だったわよね」 「主上は渋っていらっしゃるんじゃなかった? 蛮族に真公主を嫁がせるのは忍びないって」 「高官たちもおおむね主上と同じ考えよ。だからって野良犬みたいに追い返すわけにもいかないわ。鬼淵は近頃、力をつけてきてるもの。邪険に扱えば、火種になるかもしれない」  初耳だ。父帝は政治向きの話を鳳姫にしない。 「主上は返答を濁していらっしゃったんだけど、つい最近、降嫁の催促のために、鬼淵からまた使節団が来たのよ。使節団の代表は誰だと思う? なんと、鬼淵王その人よ」 「鬼淵王って、残虐な男なんですってね。二十四人の兄を殺して玉座についたとか」 「毛むくじゃらの大男だって聞いたわ。毎日生き血を飲むから、獣みたいな言葉を話すって」  ぞっとする、と女官たちは大げさに怖がってみせた。 「化け物に公主さまを嫁がせるなんて、あんまりだわ」 「主上が反対なさっていて、高官たちも否定的なら、降嫁は実現しないでしょ」 「でも、真公主のご降嫁を進言なさったのは冷大学士なのよ。蛇周と手を切って、鬼淵と同盟を結び、『夷を以て夷を制す』べきだと」  大学士は、正確には内閣大学士という。皇帝の秘書官であり、顧問官でもある高官だ。  絶大な権力を持つ老獪な内閣大学士たちと肩を並べる冷大学士は、三十にさしかかったばかりと若く、特に外政で辣腕をふるっている。父帝の信頼が厚い有能な人物である。 「蛇周と手を切る? どうして? 蛇周には、定期的に偽公主が嫁いでいたはずだけど」 「このごろ、蛇周が増長しているみたい。しょっちゅう辺境に侵攻してくるらしいの」  蛇周も北方の異民族だ。粗野で血の気の多い人々だということしか、鳳姫は知らない。 「それなら、今まで蛇周と通婚していたように、偽公主を嫁がせればいいんじゃない?」 「朝廷でも意見が割れているわ。蛇周同様、偽公主の降嫁で手を打つべきか、蛇周とは待遇に差をつけて真公主を下賜するべきか。冷大学士は鬼淵に真公主を嫁がせ、生まれた王子を王位につけるべきだとおっしゃるの。そうすれば、次代の鬼淵王は主上の孫になるから」  戦わずして異郷を掌握することができると、冷大学士は父帝に進言したという。 「真公主っていっても、年頃の公主さまは三人いらっしゃるわ」 「なぜ鳳姫公主なの?」  同輩たちに尋ねられ、訳知り顔の女官は小声で言った。 「だって、鳳姫公主は本当の公主じゃないでしょ」  瞬時に全身の血が鉛になった。 「知らない? 鳳姫公主は不義の子だって噂」 「聞いたことはあるけど、本当なの?」 「本当に決まっているわよ。お顔立ちが主上に似ていないもの。鳳姫公主の左目の泣きぼくろ、主上はもちろん、生母の向麗妃にもなかったわ。きっと間男譲りなのよ」 「言われてみれば……。主上はご存じなのかしら?」 「さあね。でも、向麗妃が病を理由に実家に帰されたことを考えると……」  女官たちは意味ありげにうなずき合った。 「だから鳳姫公主なのね。不義の子なら異民族にくれてやっても惜しくないってわけ」 「おかわいそう。野蛮人に嫁がされるなんて……」 「しょうがないわよ。密通の末にできた子が公主として育てられたこと自体、幸運だったんだもの。鳳姫公主は主上に親孝行をなさるべきよ」  女官たちがこちらに来る。鳳姫は慌てて園林に降りた。曇り空の下、逃げるように小道を駆けていく。粉彩の茶壺の包みを持つ手がカタカタと震えた。 (……わらわが、和蕃公主に?)  異民族を懐柔する目的で異国に嫁がされる公主を和蕃公主という。  多くは傍系にあたる宗室の娘や、後宮の宮女が公主という名目で嫁がされるのだが、稀に真公主、つまり本物の公主が花嫁に選ばれることもある。  数十年前に没した成西大長公主――父帝の大叔母は、先々帝の皇妹として西域の継狗国に嫁した。老齢の継狗王との間に男子をなしたが、後年、凱と継狗の間で勃発した戦で夫と息子を亡くし、祖国に連れ戻された。鳳姫が生まれる前に亡くなったので会ったことはないが、成西大長公主が苦難に満ちた人生を送ったことは、聞き及んでいる。 (噓でしょう、異民族に嫁ぐなんて……)  今年で十九歳になるのに、鳳姫には縁談が持ち上がったことがない。  公主たちの中で一番地味でさえないから人気がなくても仕方ないと思いつつ、異母妹たちがひっきりなしに良家の令息を紹介されるのを羨望の眼差しで見てきた。  それでも、いつかは嫁ぐ日が来るだろうと思っていた。  まさかそれが二度と帰ることができない異国だとは、想像もしていなかったけれど。 (……鬼淵王……)  鬼淵人は凶猛な戦いぶりで有名だ。先代の鬼淵王は無類の戦好きで、方々に進軍して破竹の勢いで周辺の小国を滅ぼした。かつては草原の覇者であった古鹿国をあっという間に征服してしまったことは、蛮族の脅威を知らしめる話として凱にまで伝わっている。  先代の末子であった現在の鬼淵王は、二十四人の兄を殺めて玉座についたそうだ。身内に対しても冷酷なのだから、血に飢えた獣のような荒くれ者に違いない。  その鬼淵王が皇宮に来ている。今夜、鬼淵の使節をもてなす宴が催されるらしい。公主たちも出席することになっているが、鳳姫は宴というものが大の苦手だった。大勢の人が集まる場所には怖気づいてしまう。何か失敗を――けつまずいたり、杯をひっくり返したり、話しかけられて口ごもったり――してしまわないか心配で、寸刻も落ちついていられない。  普段でも卒倒しそうなほど緊張するのに、今宵の宴席には鬼淵王がいるのだ。  一瞬、体調が悪いことにして欠席しようかと思ったが、唇を嚙んでその考えを捨てた。公主の務めから逃げてはだめだ。たとえ膝が笑ってしまっても、出席しなければ。 (鬼淵王との結婚だって、お父さまに命じられたら……従わなきゃ)  公主の結婚は、皇帝が決めるもの。父帝の命令を拒むことなどできない。ましてや、鬼淵との同盟が祖国の利益になるというのなら、自ら進んで嫁ぐべきだ。 (……御恩を返さなければならないわ。今まで公主として育ててもらったんだから)  鳳姫は公主でありながら公主ではない。女官たちが言っていた通り、不義の子だ。  もちろん、表向きは父帝の娘ということになっている。鳳姫も長年そう思って生きてきた。九年前、父帝と栄皇后が鳳姫の出自について話しているのを聞いてしまうまでは。 『鳳姫にもいつかは話さなければならないだろう。あの子の本当の父親が亡くなったことは』  衝立の陰で耳をそばだてていた鳳姫は、愕然として持っていた茶杯を落としてしまった。父帝のために焼いた白磁の茶杯は、悲鳴じみた音を上げて割れた。 『わ、わらわは……お父さまの子ではないのですか?』  すっかり色をなくした顔で尋ねると、父帝はためらいながらも、すべてを話してくれた。  向麗妃が実家の使用人と私通したこと。事を公にすれば、当時、赤ん坊だった鳳姫まで処刑しなければならなくなるので、真相を伏せて鳳姫を公主として育てたこと。鳳姫の本当の父親である向家の使用人がつい先日、病で亡くなったこと……。  自分は父帝の子ではない。突如もたらされたおぞましい事実に怖気立った。  後宮の掟は、密通を重罪としている。不義を犯せば、皇后であろうと、最下級の宮女であろうと冷宮に一生幽閉されるか、皇帝に死を命じられる。むろん、密通によって生まれた子、あるいはそのような疑いがかけられた子は、情け容赦なく処刑されるのだ。 『お願いです、わらわを殺さないでください』  首斬り台にのぼったような気持ちで、鳳姫は涙ながらに懇願した。掟通りなら、揺り籠の中にいた鳳姫は死を命じられていた。こうして生きていられるのは、ひとえに光順帝の慈悲のおかげ。されど、天子の情けは無条件に続くものではない。  皇恩には報うべし。忘恩の徒には天誅が下る。経典の訓言が思考を締めつけた。 『お父さまの役に立ちますから、役に立てるようにしますから、どうかお慈悲を……』  助命を哀願するには、罪をあがなってあまりある自らの価値を証明するしかない。皇恩に報いなければならないのだ。さもないと、父帝に見放されてしまう。 『血のつながりがなくても、おまえは余の大事な娘だよ』  父帝は優しくなだめてくれたが、震えは止まらなかった。  大恩に報いなければならない。父帝が鳳姫を処刑しなかったことを、後悔しないように。  公主の主な仕事は結婚だ。皇帝は優秀な臣下に恩賞として公主を与える。見栄えのする褒賞は臣下の誉れになり、彼の忠心を確かなものにするという。  鳳姫は立派な花嫁になろうと誓った。罪深い生まれを払拭するような公主に。  女性のたしなみである裁縫や機織りは苦手なりに頑張った。包丁を持つと必ず怪我をするほど料理下手だけれど、料理が得意な栄皇后に師事して練習してきた。詩文や歴史などの教養の勉強にも励んでいるし、歌舞音曲だって教師に厳しく指導されながら学んでいる。  鳳姫は不得手なことが多すぎて、妹たちみたいに要領よくできないけれど、申し分ない花嫁になるべく、努力を重ねてきたつもりだ。だが、異民族に嫁ぐことは考えていなかった。 (お父さまの役に立つ好機じゃない)  鳳姫が鬼淵に嫁ぐことで凱が助かるなら、父帝の役に立つという目的は達成できる。まさしく、皇恩に報いる好機ではないか。頭ではそう理解しているが、怖いものは怖い。  異国というだけでも足がすくむのに、相手は兄殺しの鬼淵王だ。  恐怖から逃げるように闇雲に園林を歩いていると、いつの間にか、見覚えのない場所に来ていた。周囲には銀桂が枝葉を広げている。物憂げな風がさわさわと白い花を揺らした。考え事をしながら歩いていて道に迷うことは、たまにある。 『皇宮育ちなのに皇宮で迷子になるなんて、姉上は本当に間が抜けているなあ』  弟の遊宵には笑われるけれど、事実なので何も言い返せない。  とりあえず来た道を引き返そうとして振り返ってみる。小石が敷きつめられた道は二手に分かれていた。鬼淵王のことで頭がいっぱいで、どちらから来たのか分からない。  助けを求めようにも、周りには人影がない。心細さがどっと押し寄せてきた。自分だけが世界に取り残されたような気分だ。途方に暮れていると、近くの茂みがガサガサと鳴った。  びくっとして飛びすさった直後、茂みの陰から何かが出てきた。見事な雪色の毛並みが目に飛びこんでくる。墨で優美な模様を描いたような体はたくましく、長いひげを蓄えた険しい面構えはいかにも凶暴そうで、前脚には人間の頭を易々と砕けそうな爪が生えている。 (……とっ、虎!?)  普通の虎ではない。白虎だ。伝説で語られる神獣が視線の先にいた。 (まさか、黎洋苑に迷いこんでしまったの……?)  皇宮には珍しい生き物が集められた黎洋苑という場所がある。異国から送られてきた珍獣も多く養われていると聞くから、ひょっとしたら、黎洋苑に入ってしまったのだろうか。  うろたえる鳳姫の前で、白虎は大あくびをした。翡翠のような瞳で鳳姫をとらえ、のっそりと近づいてくる。鳳姫は後ずさった。裙の裾を踏んで尻餅をついてしまう。  茶壺を落とした。耳障りな音が響く。そして、獣の息遣いが頰を撫でた。 (……わらわは、どうしていつもこうなの)  人前で高官の名前を間違える。宴席でつまずいて食膳をひっくり返す。窯の中で居眠りして、危うく器と一緒に焼成されかける。大事な式典を忘れて、一日中、陶磁器を磨いている。  幼い頃から鳳姫を見てきた教師たちは「努力家だが、のんびり屋」と口をそろえて言う。 『鈍いんだよ、姉上は。いろんな意味で』  遊宵に言わせれば、鳳姫はどんくさいのだ。ただでさえ不器用なのに、何かを考え始めると、他のことが頭から抜け落ちてしまう。その悪癖のせいで失敗ばかりしている。  今回も自分の短所が原因で窮地に陥ってしまった。白虎に睨まれ、反射的にぎゅっと目を閉じて縮こまる。逃げようにも足が震えて立ち上がることもできない。 「――――」  ふいに、男の声音が飛んできた。異国の言葉だ。ついで軽やかな足音が近づいてくる。  おそるおそる瞼を開ける。視界に男の足元が映りこんだ。精緻に刺繡された黒革の長靴。踝丈の胡服は金糸で獅子文が縫い取られ、腰の辺りから左右に裂けている。切れ目は白貂の毛皮で縁取られており、革帯からは銀の帯飾りと刀が吊りさげられていた。 「大丈夫か」  気づかわしげな声が降る。鳳姫は文字通りびくりとした。今度は凱の言葉だ。 「すまないな、こいつが脅かしたみたいで。腹はいっぱいにしてあるから人を襲いはしないが、凱の美人が珍しかったんだろう。許してやってくれ」  気さくな口ぶりに異国の訛りはない。こわごわ視線を上げ、声の主を振り仰いだ。  ずいぶん上背のある青年だ。陽光を集めたような金髪を肩に垂らし、灰色の毛皮で作られた帽子をかぶっている。北方人らしい彫りの深い容貌は精悍だが、蒼玉のような瞳は親しげで明るい。整った口元に浮かぶ笑みも、どこか人懐っこい感じがした。 「……そ、その虎は、あなたの……?」 「鬼淵から連れてきたんだ。凱では、白い虎をやたらとありがたがるって聞いたからな」  父帝への献上品だという。青年はまるで愛猫にそうするように白虎の頭を撫でた。 「き、鬼淵の……方なのですか」  兄殺しの鬼淵王を思い出し、心臓がどくどくと脈打った。 「使節団の一員だ。数日前についたばかりなんだが、こちらはまだ暖かいんだな。もう十月だっていうのに雪も降っていないし、外套もいらない」  青年は領を大胆にくつろげている。胡服の下の銀藍の中衣からは素肌がのぞいていた。 「あなたは? 見たところ、皇宮の女官かな」  陶磁窯に行くときは軽装なので、公主とは思われなかったらしい。今更、公主と名乗る気にはなれず、「ええ」と返答を濁した。 「……助けてくださってありがとうございました。では、わらわは、これで……」  慌てて立ち上がろうとしたが、足腰が萎えて力が入らない。 「どうした? 足をひねったのか?」 「いっ、いえ、大丈夫です……! どうぞ、お気遣いなく……」  立ち上がれないなら這うしかない。鳳姫は四つん這いで、来た道を引き返そうとした。おぞましい鬼淵人から、少しでも離れたい。恐怖心に急き立てられ、慌てれば慌てるほど裙が足にまとわりつく。とうとう踏まれた蛙みたいに、べたっと地面に倒れこんでしまった。 「大丈夫そうには見えないぞ。怪我をしているなら、手当てをしようか」 「……け、結構です。怪我はしていません」  やっとのことで数歩分離れたのに、青年は鳳姫が作った距離を軽々と縮めた。 「もとはといえば俺の虎があなたを脅かしたのが悪いんだ。放っておけないよ」 「ほ、放っておいてください。ひ、一人で、な、何とかなりますから……」  突如、雷がとどろいた。耳をつんざく轟音にすくみ上がり、鳳姫はその場にうずくまる。道に迷い、虎に出くわし、鬼淵人に遭遇し、雷まで鳴りだした。今日は受難の日だ。 「じき雨が降る。部屋に入ったほうがいい」  青年に抱き上げられた瞬間、髪の毛から爪先までが石になったような気がした。  青年は瑠璃瓦がふかれた平屋建ての建物に向かった。おそらく、この辺りは鬼淵人にあてがわれた区域だろう。青年と似たような格好の男たちが物騒な武器を持って立っていた。  白虎は行儀のよい猫のようについてくる。軒下に入るなり、ごろんと寝そべった。  豪華な調度品が並ぶ客間に足を踏み入れると、青年は鳳姫を長椅子におろした。 (……最悪だわ。鬼淵人と、二人きりになるなんて……)  鳳姫は真っ青だった。今にも卒倒しそうだ。むしろ、気絶したほうが楽かもしれない。すぐさま部屋を飛び出したいけれど、情けないほど膝が笑っている。歩けそうにない。  窓外では、雨が降り始めていた。礫のような雨粒がしきりに地面を叩いている。 「どちらの足をひねったんだ?」  青年が床に膝をついて、こちらを見上げてくる。青い瞳に射貫かれてどきりとした。 「ひ、ひねっていません」 「どこかにぶつけたのか?」  鳳姫はぶんぶんと首を横に振った。結い髪に飾った簪がしゃらしゃらと騒ぐ。 「足をひねったわけでもなく、ぶつけてもいないのに、なんで這っていこうとしたんだ?」 「そ、それは、と、虎に驚いて、腰が抜けて、立ち上がれなかったので……」 「腰が抜けた?」  鳳姫がうなずくと、青年は目を丸くした。数秒後、ふっと噴き出す。彼が心底愉快そうに肩を揺らすので、鳳姫は恥ずかしくなって膝の上で両手を握りしめた。 「……虎に出くわしたら、誰だって腰を抜かします」 「凱ではそうなのか? 信じられないな。鬼淵には虎を見て腰を抜かすやつはいないぞ。腰なんか抜かしていたら、その間に食われてしまうからな」  青年は楽しげに笑っているが、鳳姫はちっとも笑えない。 「発音が悪くて聞き取れなかったかな。腰を抜かしているうちに食われると言ったんだ」 「聞こえています。……凱語がお上手ですね」 「しゃべるほうは何とか。書くほうは苦手なんだ。凱の文字は毛むくじゃらだから」 「……毛むくじゃら?」 「うんざりするほど画数が多いだろ。一字一字が毛むくじゃらの獣みたいだ」 「まあ