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作者:糸森環
类型:乙女向 书籍样本 日文
出版:2016-12-20(一迅社)
价格:¥540 原版
文库:一迅社文库Iris
丛书:恋と悪魔と黙示録(8)
代购:lumagic.taobao.com
恋と悪魔と黙示録 8 身代わり聖爵と悪魔のための茨姫 目次 序章 日は巡り、赤く花咲く 一章 月は霞み、燈る棺の室 二章 火は絶え、黄昏に沈む 三章 水は揺れ、緑は微睡む 四章 木の奥で、水は満ちる 五章 金の瞳と、青の願いと 終章 土の世で、紫は黙した 小話 禁断クッキー あとがき イラストレーション ◆ 榊 空也 恋と悪魔と黙示録 身代わり聖爵と悪魔のための茨姫 序章・日は巡り、赤く花咲く  そのとき、蝋燭に火がついた。  暗闇に、赤い小花が咲いたかのようだった。 「言葉とは、『杯』である」  使徒ドミヘは蝋燭を軽く掲げて、告げた。言葉とは。  形を持たぬ『受け皿』である。人はそこに愛や喜び、怒りといった感情を注ぎ、他者に差し出す。受け取った者は、杯を飲み干す。  そしてその者もまた、新たに愛やら憎しみやらといった思いを注いで、誰かに回す……。  杯自体は、変化しない。重要なのは、そこにどんな心を注ぐかだ。  短い沈黙の後、新たな蝋燭に、火が咲いた。 「どうかな。言葉とは、『水』じゃないか?」  使徒ベアムーンが囁いた。私は逆に、いかようにも変化するのが言葉だと考えるよ。使う者によって変幻自在、他者を切り裂く剣にもなる、あるいは守りの盾にもなる。  三本目の火が闇に咲く。 「なるほど。私は、言葉というのは『鏡』だと思うな」  使徒シシーがつぶやいた。言葉自体に意味はないね。人が勝手にそこから意味を見出すだけだ。でもそれは、見る者によって映る景色が違う。鏡を見せた者ではなく、見る側の心次第ということだ。  すぐさま四本目の火が花開く。灯したのは、使徒ジャクシャクだ。 「いや、言葉は、壁に焼きついた『悪魔の雄叫び』で間違いない」  彼は、決めつけるように吐き捨てた。騒乱のもとであり、人を惑わす悪しき偶像に等しい。だから神は『沈黙』を愛されるのだ。  わずかな間の後、五本目の火が咲く。  使徒フィス・ウィーは、言葉を「天体」だと譬えた。人が朽ちたあとでも、輝き続けるものであると。  六本目、七、八、九。闇を遠ざけるように、次々と明かりが増える。使徒オーは「大樹」だと、使徒ニッコは「霊」だと、使徒アショルカは「永遠の松明」だと、使徒ピルゲは胸を濡らす「露」のようだと。  最後に、使徒エーリンデンが言った。 「言葉とは、『音なき楽』だ」  穏やかな声が、使徒らの耳に滑りこむ。 「楽譜を目で追えばたちまち遥かな音色が浮き上がり、シャンシャンと脳髄の裾野にまで響き渡る。止めようとして、止められるものではない。猛雨や風雪のように、ふとしたとき、頭の中に吹き荒れる」  使徒たちは互いの顔を見回すと、微笑んだ。  誰の説にも一理ある。  彼らは今、白亜の柩を取り囲んでいる。多種の花が敷き詰められたその中には、黒髪の乙女が眠っている。彼女は一冊の古びた書を胸に抱き、どこか幸せそうな表情を浮かべている。 「書の王女、あなたならなんてお答えになるだろう? 言葉の本質とは?」  エーリンデンは優しく語りかける。  もちろん乙女は答えない。瞼はぴくりとも動かず、唇もまた、貝のように閉ざされている。返事は得られぬとわかっていても、エーリンデンは残念に思い、溜息を押し殺す。  人嫌いで癇性なところがあるジャクシャクさえも、乙女の目覚めを待ち望むようにじっと見つめている。  彼女はどんな夢を見ているのか。使徒らは日に幾度も、乙女の夢路に思いを馳せる。  彼女が仰ぐ空は、朝焼けに染まっているのか、星が浮かぶ青い夜なのか? 華奢な足を乗せる大地は、枯れ野か、草原か? 野焼きの煙は、彼女の歩む道を覆ってしまわないだろうか。  その世界に、音楽は満ちているか? 「――高貴なる十使徒よ。またこちらへ足を運ばれていたのですね。あなた方は、彼女の眠りを見守っているのですか、それとも妨げたいのですか?」  地下の階段を下りてきて、そう声をかけたのは使徒エイレだ。彼は使徒の中で、誰よりも若い。頬は初々しく健康そうだ。肩には、一輪の花をくわえた灰色の鳩が乗っている。  のちの世で『十貴人』と呼ばれる使徒らは、呆れた様子のエイレを見ると、再び互いの顔を見回し、微笑んだ。  そうして、それぞれが持っていた蝋燭を柩の縁に置く。  エイレの肩から鳩が飛び立ち、柩の頭部側に止まる。  使徒らは静かに柩から離れた。扉に続く階段を上がり、その神聖な部屋から立ち去る。  鳩は、咥えていた花を柩の中にそっと落とした。  乙女がどんな夢を見ているか、神もまた、知らないのだ。 一章・月は霞み、燈る棺の室  レジナ・バリシオは、瞼を開いた。  夜が明けていないのか、辺りは薄暗い。  何度か瞬きをし、亀裂の走る天井を眺める。しばらくそうするうち、この薄暗さに慣れてきた。亀裂ではなかった。枝だ。天井全体に樹木の絵が描かれている。  あちこちに飛び散っている小さな染みのようなものは、鳥の図だった。  精密な画風ではない。鑿で荒っぽく削ったような描写だが、円熟した技量をうかがわせる。枝の広がり方、鳥の配置、その翼の向き。目線。すべてが計算され、ある種の調和をもたらしている。  こんな絵がいつか描けたらいいな、と憧れを抱いたところで、急に肌寒さを感じた。毛布がほしい。 「……?」  レジナは眉根を寄せた。  身を起こそうとすると、まるで何年も放置されていた歯車のように手足がぎしぎしした。  ――なんだか変だ。  天井画に対するのどかな感想は一瞬で頭の中から吹き飛んだ。代わりに、疑念と焦りが膨れ上がる。  今は夜なのか、昼なのか。  ここはどこなのか。そもそもなぜ自分は眠っていたのか。  眠る前に、なにをしていた?  記憶が濃霧に隠されているようだ。どれほど目を凝らしても、見通せない。  胸の上で組み合わせていた手をゆっくりと動かし、寝台の状態を探る。  すると、指先になにかが触れた。  ――なんだろう、この感触。  柔らかくて、薄くて、少しひんやりしている。それに、甘い匂いもする。菓子の甘さとはまた違う。どこか青臭い。むせ返るような強い香りだ。  そこまで考えて、指先に触れた物の正体に気づく。  なぜかたくさんの花が、自分のまわりに敷き詰められているのだ。  自分でやった覚えはない。慎重に花を掻き分け、その下に指先を滑らせる。寝台の表面は滑らかだった。弾力性もある。どうやら布地の下にみっちりと綿を詰めているらしい。  指はすぐに、行き止まりにぶつかった。  壁がある。左右両方に。  ――これって寝台じゃない?  深まる疑問に頭を悩ませながら、視線を巡らせる。  天井は見えるが、左右は壁で阻まれているので、様子がわからない。ただ、ここはひどく狭い。寝返りも打てないような幅だ。  レジナは数秒、息を止めた。  目覚めてから得た情報を整理すると……箱に似た細長い物の中に、自分は横たわっている?  焦りは次第に恐怖の色を帯び始めた。  違う、箱じゃない。  柩だ。  石棺の中に仰向けに寝かされている。  下半身側は蓋らしき重たげな石板が柩に乗っている。それが斜めにずらされていたため、天井が見えたのだ。  思うように動かない手足に苛立ちを感じながら、時間をかけて上体を起こす。  柩を乗せている石製の台座の縁に、蝋燭が数本置かれている。そのおかげで真っ暗にならずにすんだらしい。  レジナは無意識に息をひそめた。  さほど広い部屋ではない。左側の隅のほうに短い階段があり、黒っぽい頑丈な扉が設けられている。頭部側、右手側、爪先側、三方の壁には背の高い棚と書架があった。  明かりの乏しい中でも、それらが古い作りであることがわかる。  棚には、書物や羊皮紙の束、羽根ペン一式、からくり細工、台座が自鳴琴オルゴールになっているネジ付きの丸い硝子ガラス瓶、なにかの実験器具、水晶を埋めこんだ単眼鏡や小型の石版などが並んでいた。  大型家具はその程度だ。他に、木箱がいくつか床に置かれている。  寝ているときは花の香りしか感じなかったが、意識を研ぎ澄ませると、室内全体が埃臭いことに気づく。目立った腐朽は見られない。廃墟に通じる乾いた雰囲気がある。生物の気配がないせいだ。  自分を乗せている柩は、部屋の中央に設置されている。  目線の位置から察するに、台座は大人の腰のあたりまで高さがあるのではないか。  下半身側を覆う蓋の装飾を、じっと見つめる。  重たげな蓋だ。一人では動かせないだろう。表面には、書を胸に抱いた花冠の乙女の高浮き彫り。彩色はなされていないが、精巧だ。  微妙な気持ちになる。  まさかと思うが、偶然似ているんじゃなくて、本当に自分の姿を基に彫られた?  蓋から視線を外し、周囲を見回す。  窓は設けられていない。出入り口は一ヶ所のみ。  しばらく考えて、ここはクリプトではないか、と思い至る。  レジナは片手で額を覆った。クリプト。こめかみがつきんとする。そうだ、カイナール教会にもクリプトがあったのだ。  頭の中を覆っていた濃霧が晴れ、記憶がなだれこんでくる。その勢いに圧倒され、つかの間呼吸を忘れた。  悲劇の夜。赤い月が輝く夜。唯一の肉親である兄ラウルが、名もなき悪魔に殺された。それから、レジナはカイナール地区の教会に身を寄せ、「森玄使」として生きてきた。  十年が、あっという間にすぎていった。  目の前に、幻の地形図が浮かび上がる。星形の大陸レレス。右端の地に、母国たるネクシャベルトがある。唯一神ラプラウを崇める国だ。  善悪は表裏一体、神がいるなら当然、悪魔も存在する。邪悪な者たちは、人間の赤子同様、毎日のように産声を上げる。そして人々を惑わせ、破滅に追いこむ。災いを招く。  だからこそ戸籍が必要だ。人に仇なさぬよう封じるため、生態を明らかにするのだ。  悪魔の戸籍書は、聖陰書と呼ばれている。  その聖陰書の写しを、聖沌書という。  森玄使とは、写しである聖沌書を作る者のことだ。  レジナの運命は、ある夜に、神と悪魔両方の性質を持つ神魔と契約をかわしてから、大きく動き始めた。  神嫁殺害事件の解決後、悪魔の生態調査を行う「朔使」として働くことになる。  任務を遂行するうちに、思いもよらぬ真実に行き当たった。殺されたはずの兄ラウルが生きていたこと。魔王マグラシスとして復活したこと。自分が原初の人間であること。  埋もれていた真実が顔を出すと同時に、運命の歯車も、さらに激しく回り始めた。  闇の千年王国が到来し、地上に魔物が溢れ出したのだ。  それだけでは終わらない。先輩朔使であり、日常面でも頼りにしていた青年貴族ヴィネト・カシギが死に、幻魔の王として復活した。  自分も、対をなすという原初の悪魔カラシャと結婚することになった。  そして――。  挙式の日、朔使総帥リウに腹部を刺されたのだ。原初の悪魔と人間の結びつきを阻止するために。  レジナは両手で腹部を押さえた。  痛みはないが、どうなっているのだろう。  傷口の状態を確かめねばと思うも、躊躇が生まれる。  いつの間に着替えたのか――着替えさせられたのか、白い衣に身を包んでいる。一枚布で作られた、袖なしドレスだ。生地は絹のように滑らか。装飾は一切ない。  布地の上から、刺された箇所を何度もさする。  おかしい、傷があるようには思えない。  そもそも誰が手当てをしてくれたのか。カラシャ? リウ?  悩んだ末、思いきってドレスの裾をまくり上げる。  ――ない。  レジナは呆然とした。まじまじと腹部を見下ろし、指先で肌をこすってみる。  傷跡自体が存在しない。そんな馬鹿なことがあるだろうか。刃元まで深く突き立てられたのだ。生きているのが不思議なくらいで、傷も大きく残るはず。  ――なのに、なんで?  リウに刺されたのは、ただの夢だったとでもいうのか。  混乱しながらも、その考えを否定する。違う。もしもあれが夢なら、ラウルの復活もヴィネトの死も全部なかったことになる。  ――そうであったらどんなによかったか!  だが、夢であってほしいと思うことほど現実なのだ。  ドレスの裾を戻し、震える息を吐き出す。  他に異常はないか、両手を開いたり握ったりして確かめる。多少ぎこちない動きになってしまうのは寝起きのせいだと思うので、問題ないだろう。  次に、柩の内部に敷き詰められていた花を見下ろす。ダリアに薔薇、小花などだ。どれも淡い色合いの花弁だった。  ――香りもあるし、花弁もまだ瑞々しい。  ということは、ここに置かれてからそんなに時間が経っていない?  柩も、作り自体は古いが、汚れが拭われているようだ。  柩の縁から身を乗り出し、床を覗きこむ。そこでレジナは目を見張った。  床には、柩の台座を円状に囲む状態で、ずらりと紋章が刻まれていた。  図柄は統一されている。太陽を模した円形の蔓草と星。その中央では、蜂にも鳥にも見える神秘的な生き物が、鍵に似た形の槍を二本、両足で掴んでいる。  これは旧教会の紋章だ。  聖典の絵図の中にのみ存在する特別な紋章で、実際にはどこの教会にも使われていない。  というより、使用を禁じられている。以前訪れたストラ召喚士導院の紋章は、おそらくこの図案を参考にしている。  その神聖な旧教会の紋章と同一の図柄が、床に使われている。  あらためて、この場所に不審を抱く。  レジナはじりじりと体勢を変え、柩の中で膝立ちになった。不安だらけだが、ここでじっとしていても始まらない。まずはこの部屋を出てみよう。  柩の縁に手をかけ、飛び降りようとしたときだ。  ぎいっと重たげな音が耳に届く。短い階段の先にある扉が、外側から開かれたのだ。  レジナは動きを止め、顔を上げてそちらをうかがった。全身に緊張が走る。  靴音。衣擦れの音。揺れる明かり。手燭を掲げた誰かが階段を下りて、近づいてくる。  まさかレジナが起きているとは思わなかったのだろう。その人物は、階段を下りきるまで足元に視線を落としていた。ふっとなにげなくこちらに顔を向け、目を剥く。声にならない声を漏らし、手燭を床に落とす。  一方レジナも、驚きと不安に苛まれ、反応できずにいた。  見覚えのない男だ。年の頃は、三十代前半だろうか。  中肉中背で、髪は赤茶色の巻き毛。肌は白い。  相手の格好から、敵ではないように思われる。ローブの下は聖衣だ。  身にまとう衣の種類で、だいたいの地位がわかる。修道士ではない。刺繍の入った広袖の礼服の上に、濃い紫色のストールをかけている。腰には革帯。  簡素だが、高位の聖職者が着用する衣だ。修道司祭かもしれない。  だが、それにしては、若い。 「ひ……柩の聖女が、目覚められた」  男は悲鳴のような、掠れた声で言った。  面食らったが、状況的に、柩の聖女とはどうやら自分のことらしい。  すこぶる奇妙な気持ちになる。誰が自分を柩に寝かせたのか知らないが、悪趣味じゃないだろうか。 「あの、あなたは誰ですか? わたしはどうして、ここで寝ていたんでしょうか」  レジナは相手を刺激しないよう、静かに訊ねた。  が、男は頭上で雷鳴が轟いたかのように、びくっと大げさに肩を揺らす。  訊ねたいことは他にもあったが、口にする気が失せた。  まともな返事を期待できそうにない。 「使徒たちよ、とうとう柩の聖女が目覚められた!」  男は慌ただしく振り向くと、手燭を拾い、扉のほうへ叫んだ。彼以外にも、人がいるようだ。 「皆、早くこちらに来てください!」  恐れられているのか、喜ばれているのか、よくわからない反応だが、できるなら友好的に話し合いたい。目覚めてからの情報がとにかく少なすぎて、自分が置かれている立場を把握しきれないのだ。  少し経って、扉が再び開かれる。 「ああ、我らが賢き友たち、ご覧ください、彼女が蘇ったのです!」  そちらを見つめて、彼が言う。  現れたのは、四人の男だった。巻き毛の彼の声を聞きつけて、やってきたようには思えない。もともとこちらに向かっていたのではないだろうか。  扉は重たげで、絶叫でもしない限り、離れた場所までは届かない気がする。  四人の男は、十代後半から五十代と、年齢の幅が大きい。  しかし全員、最初に現れた巻き毛の彼と同じ聖衣を着用している。  ――やっぱりここは、教会のクリプトってことなのかな。  どこの教会なのだろう。床の紋章はカイナールのものではないし。  彼ら四人は、レジナと目が合うと、驚愕の表情を浮かべた。 「どういうことだニコル、柩の聖女はいつ目覚められたのか」  最年長と思しき男が、動揺のにじむ声で巻き毛の彼――ニコルに訊ねる。 「わたくしがこちらへ様子を見に来たときには、すでに目覚められていたのです、ジング様」  巻き毛のニコルが、ジングという名らしき年嵩の男に説明する。 「短剣を抜いただけでは、目覚めに至らぬのかと思っていたが……」  ジングがいぶかしげにつぶやく。  彼はこの中で一番年上に見えるが、誰よりも体格がよく、屈強に見える。灰色の短髪に、同色の瞳。眼光は鋭い。眉も太く、顎も四角い。  着用しているのが聖衣でなければ、剣士と誤解したかもしれない。  彼らはしばらく、扉付近に立ち尽くした。  三十代半ばの、優しげな風貌の男がまっさきに正気に返り、こちらへ近づいてくる。十代の少年が慌てた様子で「リルゲル様」と呼んだが、その男は歩みを止めなかった。  レジナは柩の縁から手を離し、座り直した。わずかに空気が動いたためだろう、花の香りがふわっと立ち上った。  リルゲルと呼ばれた男は、レジナと視線を合わせると、にこりと微笑んだ。  薄紅色の髪を顎の位置まで伸ばしている。瞳は明るい赤。少し垂れ目だ。唇の右端に、小さなほくろがある。 「目覚めのときを、心からお待ちしておりました、柩の聖女」  返答に迷う。彼らの中にある自分の像が、まったく見えない。  レジナの困惑を察してか、リルゲルは労りの表情を浮かべて何度かうなずいた。 「動けますか、聖女」 「え? はい」  素直に返事をすると、リルゲルは再びやわらかく微笑んだ。仲間のほうに顔を向け、「イーウィ、シバン、書庫を片づけろ。そちらに聖女をお連れする」と告げる。  固まっていた十代の少年と二十代の青年が、息を吹き返したようにあたふたし、部屋を出ていく。  二人を見送ってから、リルゲルはこちらに視線を戻した。 「どうか、いま少しお待ちを。我ら使徒、あなたを探し出せたという僥倖に舞い上がり、なにも手につかない状態だったのです。そのためまだ、お迎えする準備が整っていませんでした」  リルゲルは申し訳なさそうに言った。  とりあえず微笑を返したが、ちっとも安心できる気がしない。  温和に見えるが、これは食わせ者だ。  最近、どこかでこういった油断ならない感じの男と会った覚えがある。  あれは、そう、自分と同じ朔使で、紫色の蜥蜴を連れた――名前をなんと言っただろうか。  頭の中に、輪郭が曖昧な人影が浮かぶ。顔立ちが明らかになる前に、リルゲルに「聖女?」と呼びかけられ、集中が途切れた。 「ご気分が優れませんか」 「いえ」  記憶を手繰り寄せるのは、あとでいい。レジナは目の前の男を見つめた。 「お気遣いありがとうございます。わたし、起きたばかりで混乱しているみたいで……失礼ですが、あなた方は誰なんでしょう?」  ひとまず、無害そうな、ごく普通の十七歳の少女、という態度で問いかける。『敵対する気はない、だけどわけのわからない状況でとても困っているし、怖い。優しくしてください』と示したつもりだ。  なるべく相手に侮ってもらいたい。そのほうが得るものが大きいし、不意もつける。  リルゲルは同情するような視線を寄越した。 「ええ、聖女。不安を抱かれて当然です。しかし心配なさらぬよう。私たちは、あなたをお守りする使徒です」 「使徒?」  わたしは無害、わたしは無害。内心で唱えながら、レジナは心細げな声を出す。 「あの、自分のことも、よくわからないんです。なぜ眠っていたのか、ここがどこなのか、それもさっぱり……」 「ご記憶がない?」  レジナは力なく首を振り、うつむいた。知らないあいだに手のひらが汗ばんでいる。  強がってはいるが、リルゲルが指摘したように、本当は不安でたまらない。  もしも彼らが善人を装った悪党だったら。彼らを倒すのは難しいだろう。戦いには向いていない。朔使の仕事はひとえに推理。その判断をもとに道を切り開いてくれるのが、契約魔であるかわいい赤い藻髪の――。 「あなたは悪魔に攫われてから、ええ――五十年も眠りについておられた。混乱されても仕方がない」 「……五十年?」  記憶の中に沈みかけていた意識が、その一言で急浮上する。  柩のそばに佇むリルゲルを、凝視する。彼もまた、レジナを静かに見下ろしていた。彼の背後に控えている巻き毛のニコルと、剣士のような風貌のジングは、複雑な表情を浮かべてレジナたちのやりとりを静観している。 「今、五十年と言いましたか?」 「はい、聖女」 「……わたしが、五十年ものあいだ、ずっと眠っていたということ?」 「はい」 「ここで?」 「いえ」  混乱が深まった。悪魔に攫われた? 五十年眠っていた?  ――なんの冗談?  言葉を失っていると、リルゲルは焦れったくなるくらい穏やかな口調で話を続けた。 「まずは部屋を移り、お召し物を替えましょう。詳しい話はそれからでも」 「お願い、教えてください。五十年? 今って新紀元の四五五五年じゃないんですか?」  リルゲルは、その赤い目にためらいを覗かせた。ややして、困ったように口を開く。 「四六〇五年ですよ」 「――」  レジナは、ニコルたちのほうに視線を移動させた。彼らは、気まずげな空気を漂わせて目を伏せた。誰もリルゲルの言葉を否定しなかった。  ――四六〇五年? 本当に?  そんな、とレジナは口の中でつぶやいた。そんな馬鹿な。  目覚めたら、いきなり五十年後の世界?  もっとましな嘘をついてほしい。信じられるはずがないだろう。  焦りと恐怖で、息が苦しくなる。恐ろしい怪物にでも追いかけられているような気分だ。  自分の両手を見下ろし、怖々と頬の感触を確かめる。  たちの悪い冗談に決まっているが――もしも真実だった場合、この肉体は、六十七歳を超えているということになる。  それだけ月日が経過していたら、容貌にだって明らかな変化があるはずだ。  だが、妙だ。この身体は十七歳のままに思える。  そこで、あっと思い出す。原初の人間。不死。よほどのことがないかぎり、死なない身体。  ――わたしは本当に「最古の王女」なの?  だったら、魔王として復活した兄ラウルはどこに? 伴侶となる予定だったカラシャは? 彼らに捕まっていた守護天使のリストや朔使たちは?  記憶の扉が次々と開かれていく。そう、それに、魔術師バーハムフォンや兄弟国ティアティの王子ロアス、妹姫のマチェラは? それから、自分を刺した朔使総帥リウは? ああ、思い出した、リウが契約した双子神魔の片割れに、獣の王国と化したユピルス国から連れ出されたのではなかったか?  わき上がる疑問の数々を、しかしレジナは、目の前のリルゲルにぶつけることができなかった。  彼は先ほど、自身のことを、レジナを守る使徒だと口にした。  その言葉を信用していいものか。虚言の可能性だってじゅうぶんにある。  密かに拳を握り、荒れ狂う感情を抑えこむ。  敵か味方か、嘘か真か、現時点では判断しかねる。だからといって、ここでリルゲルたちに反発するのは愚行でしかない。