后退 返回首页
作者:喜多みどり
类型:乙女向 书籍样本 日文
出版:2016-12-02(角川书店)
价格:¥596 原版
文库:角川Beans文库
丛书:光炎のウィザード(7)
代购:lumagic.taobao.com
光炎のウィザード 未来は百花繚乱 光炎のウィザード 未来は百花繚乱 喜多みどり 角川ビーンズ文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載したりすることを禁止します。また、 本作品の内容は、底本発行時の取材・執筆内容に基づきます。 1  うわー。なんか駆け落ちみたいだなー。  リティーヤはぼけーっとそんなことを考えながら汽車に揺られていた。  車内には頭を抱えたロードマスターと泰然自若としたヤムセがいて、リティーヤはロードマスターの隣にちょこんと座らされていた。車窓の光景は市街地から郊外へと移ろい、さらには鉄橋に差し掛かり、汽船の浮かぶ大きな川を越えていくが、そんな光景を眺める余裕もない。 「オルドゥナに捕まったらボク生爪剝がされるよ……」  頭を抱えたまま呻くようにそう呟いたのは、ロードマスターだった。リティーヤは元室長のこんなにも項垂れた姿を見たことがなかった。テヨルに怒られた時だって、ここまで落ち込んではいなかった。  そんな彼の向かいの座席に座るヤムセが、相変わらず貸本を読みふけって答えた。 「捕まらなければいいんです」  むちゃくちゃだ。リティーヤはそう思ったが、ロードマスターもやはり同じように思ったらしい。がばりと顔を上げ、ヤムセに嚙みついた。 「そんな犯罪者みたいなこと言って誤魔化さないでよ! 剝がされるのはボクの爪なんだよ、キミの爪だってタダじゃ済まないだろうけど!」  元室長の必死の抗議を涼しい顔で聞いて、ヤムセはまたページをぴらりとめくる。 「十六の子どもが泣きじゃくっていたから手を差し伸べただけです。これが罪ですか?」 「うわあああああもう何カッコつけて言ってんのー! やだこの子の相手ー」  ロードマスターがまた頭を抱えて叫んだ。なんだか状況が混沌とする一方に思えたので、リティーヤは、おずおずと手を挙げて口を挟んだ。 「先生、あたし、もう十七です。十六じゃないです。あと、子どもかどうかは先生の判断でいいですけど、泣きじゃくってはいません」 「泣いていただろうが」 「……な、泣きじゃくってはいないです」  ヤムセがちらりと目を上げ、不服そうにリティーヤを見た。リティーヤは怯まずにヤムセを見つめ返して言った。 「えと、そりゃ色々思うところはありましたけど、そこは堪えて、我慢してたんです。それを先生が我慢しきれなくなってあたしをここに連れ込んじゃったんですよね? それをあたしのせいにされたくないです」 「我慢? あれでか」 「す、少なくとも声上げて泣いてないし、洟も啜らないようにしてたし、涙っていってもほんのちょっとです!」 「だから?」 「だから、その……我慢……して、お別れ、しようと……」 「結局なんなんだ」  ヤムセが面倒臭そうに言って本を閉じ、ふんぞり返って尋ねてきた。 「《学アカ園デミー》に戻りたいのか?」 「う……」 「何にせよ今は戻らせんぞ」  そう言い足を組む。その拍子にリティーヤの足にヤムセの靴が当たる。いたっ、とリティーヤは顔をしかめるが、ヤムセは謝りもしない。わざとだったのかもしれない。  リティーヤはヤムセとその靴をじろじろと見て言った。 「……なんですか、戻らせんって。ほんっと先生ってエラソーですね」 「リスクを冒して連れ出したんだ。何も問題が解決していないのに手放せるか」 「だからっていつまでもってわけにはいかないでしょ」 「……だから、言っただろう」  今は、と。  そう、彼は言ったのだ。今は戻らせんぞ、と。  リティーヤは僅かに唇を嚙んだ。  別れはいつかやってくる。それは、変わっていないのだ。 「だが、今は」  ヤムセが呟く。その目が真摯な光を宿してリティーヤを見つめる。  リティーヤも同じようにヤムセを見つめて、頷いた。 「今は、一蓮托生、ですね」  ちらりと、ヤムセの口元が笑ったように見えた。そしてたぶん、リティーヤの口元も。  不意に、ぱんと膝を一つ叩いて、ロードマスターが顔を上げた。 「──わかった」  彼は後悔や怒りや不安をひとまず押しのけることにしたらしく、冷静に状況を分析して言った。 「次の駅には調査委員会がもう電報を打ってるだろう。駅までは行けない。そうだね、ヤムセ」 「ええ。手前で降りましょう」 「降りる……? 汽車を停めるんですか、無理矢理?」  だが、そんなことができるのか。リティーヤは混乱して尋ねた。  ヤムセが、膝の上に載せていた貸本を鞄にしまい込み、何をバカなことを、とでも言いたげな目でリティーヤを見た。 「停めはしない。ただ降りればいい」 「………………それって」  まさか、とリティーヤは青ざめた。  ヤムセは鞄を手に立ち上がると、今度は窓に手をかけ、それを押し上げた。 「ちょ、せん、せ……」  汽車はちょうど鉄橋の中程まで進んでいた。地上のレールを行くのとは別の、金属を思わせる硬い振動が足下から衝き上げてくる。  そして、ヤムセはロードマスターと視線を合わせ一つ頷くと、窓から身を乗り出して──  あっさり、飛び降りた。 「せんせえっ!?」  リティーヤは窓枠に飛びつき、ヤムセの行方を確かめようとしたが、果たせなかった。 「はい、キミもね」  ロードマスターがそう言うなり、さっとリティーヤの腰を抱えて、続けて窓から飛び降りたからだ。  そう。  飛び降りたのだ。  鉄橋を疾走する汽車の上から。  気温は日々上昇しているとはいえ、まだまだ冷たい川のど真ん中へと。 「ひっ──」  リティーヤの悲鳴は、最後には水の跳ねる音にかき消された。 「──というわけで、」  魔導書調査委員会事務局の長たるグレイビルは、局長室で執務机の椅子に座り、難しい顔で報告を聞いていた。 「ロードマスター一行はアムブールからハイドデーンまでのどこかで汽車から脱出したと考えられます。線路伝いに徹底的に調べたところ、報告書にありますポイントで川から何者かが上がった痕跡が見つかりました。気温の低いこの季節ですから、他に遊泳者はおりません。おそらくロードマスター一行と見て間違いないかと」  提出された報告書を繰りながら、グレイビルは確認する。 「川に飛び込んだというのか? いったいどれほどの高さから落ちたのだ」 「衝撃に耐えられない高さではありません。実際に試してみたところ、結界を張れば冷たい水に身体をさらすことなく岸辺までたどり着くことも可能でした」 「試したのか……」  まだまだ寒さのぶり返す冬の終わりに寒中水泳をしたという部下の言葉を聞いて、感心するよりも呆れて声を漏らす。  部下の方は、整った顔をにこりともさせずに言った。 「試しました」 「……それで、臨検の方は」 「ご命令通り、主要な街道と鉄道に網を張っております。川から一番近い町のホテルはすべて一軒一軒しらみつぶしに調べましたが、それらしいのが引っかかったという報告はありません」 《学園》は東部においては強大な影響力を持ち、各国政府を通じて警察組織を利用することもできる。リティーヤらを追う包囲網はほんの僅かな時間で整えられた。  それなのに、消えた三人の行方はまったく摑めていない。  グレイビルは、喉の奥から、獣の唸りのような声を漏らした。 「《学園》に知られていない協力者がいたんだろう。ロードマスターとヤムセだ。彼らにとって東部で身を隠すのは難しいことではない」  執務机の前に立つ部下──ゼストガは言った。 「追うことができないのならおびき寄せるか先回りするかしかありません。しかし彼らがおびき寄せられることはないでしょう。ヤムセさんはリティーヤさんをアムブールで誘拐した時点で、他のすべてを失う覚悟をしています。彼の周りに他に守るべきものは存在しません。ご実家の方に働きかけるのも無駄でしょう。ヤムセさんを《学園》というしがらみから解放したのは我々です。あの人にはもう恐れるものはないんです」 「言われずともわかっている」  グレイビルの声には、苛立ちが滲み出ていた。  リティーヤは魔導書調査委員会の管理下に置かれていたから、彼女を誘拐されたのはグレイビルの責任問題になる。リティーヤの珍しくおとなしい態度に油断していたせいもあるが、それ以上にヤムセという男を読み間違えていた。リティーヤを巡り何度か対立してきたグレイビルも、まさかヤムセがここまでの暴挙に出るとは考えていなかった。ユローナ絡みのことを除けばヤムセは冷静で、どれほどこちらが挑発しようと一線を踏み越えることはなかった。  ところが、今まで留まってきたその一線を、ヤムセはいきなり軽々と飛び越えたのだ。 《学園》を完全に敵に回すことの意味を、彼ならば十分に知っているはずなのに。  グレイビルは肉の間に埋没しそうな目を細め、まるでそこにヤムセがいるかのように虚空を睨みつけた。 「あの男を見誤った。やつならどこにだって逃げられるだろう。ロードマスターの手助けまであるのだ。海を渡って南方大陸にでも逃げられたら手出しのしようがない」 「逃げません」  いつになくきっぱりとした調子で、ゼストガは言った。グレイビルが、おや、という目で彼を見る。 「ヤムセさんは逃げません。そのためにリティーヤさんを連れ去ったのではありません。ここで大陸を出るのは単に《学園》から逃げるだけではありません、真実から逃げることになるのです。ラガロ以来、我々が追い求めてきた真実から」 「……ではどうすると?」  答える前に、ゼストガは一つ息をついた。ゼストガは誘拐の現場にいた。気付くべきヤムセの意図に気付けなかったこと、その挙げ句リティーヤを目の前でみすみす奪われたこと。ゼストガにしてみればどちらも腹立たしい事実だったが、誘拐以来、一度も取り乱したりはしなかった。ヤムセが動いた今、そんな余裕はないのだと、はっきりわかっていた。  だからこの時も、彼は感情を排して答えた。 「ヤムセさんは〈昼〉の台座の次の出現場所に現れます。《風と八月党》は四つの石板を持ってそこに行かねばなりませんし、彼らが行くのなら我々も行くことになります。四つまで集まったのであれば、それらを台座に戻すことで、たとえ完全でなくとも、何らかの現象は発生するかもしれません。我々はそのような制御されざる事態を許すわけにはいきませんし、それはヤムセさんにしても同じでしょう。あの人も《風と八月党》にこの大陸の命運を預けるつもりはないはずです」 「《風と八月党》の邪魔をしに、やつもリティーヤとともに現れる、ということか」 「そして、石板の奪還のために。石板が敵対組織の手にある現状では、《学園》におけるリティーヤさんの自由は保障されません」 「……おまえは、やつがリティーヤを《学園》に戻すつもりだと考えているのか?」  その問いへの答えを、ゼストガは一瞬迷った。  迷った末に、頷いた。 「リティーヤさんは何度も言っています。《学園》で魔術師になりたいのだと。それを捨てさせるつもりは、ヤムセさんにはないように思います。リティーヤさん次第ですが、石板が《学園》の下に戻り、自分の自由が保障されるのなら、《学園》に戻る道を選ぶのではないでしょうか? そうしなければヤムセさんと《学園》との関係は決裂したままですし、それをリティーヤさんは望まないはずですから」 「……互いを想い合う師弟愛か。美しいことだな」  突き放すようにグレイビルは言い、椅子の肘掛けに肘を載せ、頰杖をついた。 「だが、やつは、リティーヤも石板もこちらに寄越すつもりはないかもしれない。そうだろう?」 「その可能性もあります。それはそれで傲慢なあの人らしい気もします。でも、どちらにしても目的地は同じです」 「台座の出現場所、か」  グレイビルは頰杖をついていた手で肘掛けを摑み、ひょいと身軽に椅子から下りた。でっぷりと肥えているように見えるが、その目は鋭く、動きも決して鈍くはなかった。彼は魔導書調査委員会の実務部門を率いる事務局長であり、《学園》でも有数の武闘派として知られていた。 「ロードマスターは出現場所を知っているはずだ。やつの最終的な目的地がそこだというのはあり得る話だ。だがそれなら人員はすでに派遣している。出現まではあと二週間だ。おまえはその間、《学園》からの道程でやつが立ち寄りそうなところを洗い出せ。やつはもう《学園》を離れたのだから、遠慮はいらん。あらゆる手を使って、やつの思考を追え。《学園》の誰も、もはややつを庇うことはできん」 「……出現場所はどこですか」 「西部だ。ベルライン連邦の地方都市さ。クラスターという名前だ」  クラスター。その都市の名前をゼストガは口の中で繰り返した。  グレイビルはコート掛けからコートを手に取りながら付け加えて言った。 「私もこれから直接クラスターに向かう。《風と八月党》から石板を奪還するため、特別チームが組まれたのだ。魔導書調査委員会を中心に、内部調査局やあちこちの人間を入れてな。指揮は私、サブリーダーは残念ながら内部調査局のご老人だ」 「ヴォルド局長ですね」 「そうさ。そしておまえもチームの一員に選ばれた」  ハッとして顔を上げるゼストガに、コートを羽織ったグレイビルはにやりと笑いかけた。 「クラスターまでの道のりでヤムセを捕まえられなければ、そのままクラスターに来て我々と合流しろ。雪辱戦といこうじゃあないか」 2  そこは温かみのある、重厚な家具の置かれた応接間だった。陽光の降り注ぐ窓辺は様々な植物の鉢で占められ、温室のような緑の一角を作り出している。その気持ちの良い窓辺に用意されたソファにちょこんと座り、リティーヤは呆然としていた。 「まあまあまあまあ! ぼっちゃま、お待たせしてしまい申し訳ありません!」  そう叫んで、部屋に突っ込んできた人物がいたのだ。  それは、まるまると太った中年の女性だった。色つやの良い顔に素晴らしい笑みを浮かべ、彼女は椅子から立ち上がったヤムセの身体をがしっと力強く抱いた。ヤムセが痛みに顔をしかめながら挨拶を口にする間も、彼女は彼の頰にキスの雨を降らせる。 「久しぶりだな、呼び戻してしまってすまなか──」  彼女はヤムセの肩を摑み、その顔を見上げて叫んだ。 「本当にぼっちゃまですわ! まったく何年もお顔も見せてくださらなかったと思ったらいきなりいらっしゃるんですもの、乳母やはびっくりいたしましたわ! しかもなんですか、」  彼女はヤムセの言葉をほとんど聞かずに彼の身体を放り出し、ぐるんと身体の向きを変えて、自失するリティーヤの手を取った。 「こんな可愛らしいお弟子さんと愛の逃避行だなんて! ぼっちゃまのお子様のお世話をするというのがわたくしの長い間の夢でしたけれど、それが本当に叶ってしまうんですね!」 「待て、これは単に──」 「わかっておりますわ、ご主人様には内緒ですわね。大丈夫です、このラウレリート屋敷の者は皆ぼっちゃまの味方ですわ!」  どん、と彼女は自分の巨大な胸を叩いて、請け負った。彼女の声に応えて、開け放たれたままの扉から覗いていた使用人たちも、おお、と小さく声を上げて拳を振り上げた。リティーヤは呆気にとられ、ヤムセは頭の痛そうな顔で額を押さえ俯いていた。  手分けして準備を整えるためにロードマスターと一旦別れたのは、南部に入ったところだった。リティーヤとヤムセの方はそのままデイロックに入り、このラウレリート屋敷へとやってきた。  屋敷はデイロックの辺境、谷間に広がるラヴグレイ家の広大な所領にあった。  つまり、ここら一帯がヤムセの父の土地なのだ。  客間の窓から、まだ雪深いその谷間を眺め、リティーヤは背後のヤムセに声をかけた。 「凄い人気ですね」 「九歳までほとんどここで過ごしたからな」  ヤムセはソファにもたれ、疲れた声でそう答えた。リティーヤが窓から離れ背後に回ると、彼は首だけ曲げて顔を仰向けた。真上から見下ろすリティーヤの長い髪を、邪魔そうに摘む。 「でも、大丈夫なんですか? 先生のお父さんに内緒のままで」 「ばれる前に出て行く。用事が済み次第──」 「用事?」  ヤムセはそれには答えず、弄んでいたリティーヤの髪を払い除けて立ち上がった。ソファの上に放り出していたコートを手に取る。 「少し出る。おまえはここにいろ。万が一父が来てもおまえなら邪険にはされんだろう」 「はあ? 時間かかることなんですか? 先生?」 「夜には戻る」  ヤムセはさらりとそう言う。まあ、次の移動のための準備でもするのだろう。あるいはもっと危険のあることで、そのためにリティーヤを置いていくのかもしれないが──。 「ご自由にどうぞ。あたしは誘拐された身ですから」 「そういえばそうだったな」  ヤムセは、ふ、と僅かに笑い声を漏らしてコートに袖を通した。 「ならばおとなしく監禁されていろ」  不思議なものだ、とリティーヤはしみじみ思う。  指導教官と教え子としての出会いは十ヶ月ほど前に遡る。雪を割って花が咲き始めた頃だった。リティーヤが基礎課程を修了し専門課程に進んだその日、ヤムセは彼女に《学園》の徽章を手渡し、自分が指導教官だと言ったのだ。何事につけ唐突で、ぶっきらぼうな男だった。凶悪な女魔術師ユローナをおびき寄せる餌に使われたこともあったが、ユローナの攻撃から身を挺して庇ってくれもした。ユローナのこと、姉のこと、《学園》のこと、色々なことで彼は悩んでいたし、苦しんでいた。リティーヤはその一端に触れることはあったが、踏み込むことは許されていないように感じて、それが寂しくもあった。  自分たちの間には様々な感情があった。十ヶ月前には想像もしていなかった感情があった。  単に時間の流れのせいではない。経てきた事件が互いの傷をえぐり出し、それが自分たちを対立させもしたし、近づけもした。そして結局自分たちは揃ってここにいる。  一人になったリティーヤは室内を見回した。そこはリティーヤのために用意された客室で、ヤムセの部屋は一つ上の階にあった。きちんとカバーで覆われたベッド、軽食を摂れるような小さなテーブルと椅子、それにソファのセットがある。あちこちにかけられた房のついた細かなレース編みのカバーは手作りと思われ、家具の一つ一つも、よく手入れされ長く大切に使われてきたもの特有の温もりがあった。こぢんまりとした、優しい部屋だ。  リティーヤはとりあえず扉の前に置きっぱなしだった荷物の整理をしようと、鞄を部屋の真ん中へ持ってきて開けた。そもそもヤムセの見送りに駅に来ていただけだったので、荷物は一切持ってきていなかった。鞄もその中身も道中揃えたものばかりだ。石鹼やタオル、着替えといった、ただ乱雑に鞄に押し込んでいたものを引っ張り出し、一つ一つたたみ直したり、詰め直したりしていく。鞄の一番底から出てきたのは《学園》の制服だった。制服では目立つからと、ロードマスターが出発後すぐに新しい服を一揃い用意してくれたため、制服は鞄の底に押し込められていたのだ。  上着を広げ、両手で肩のところを摑んで目の前にかざした。  その制服に、リティーヤは自分の何もかもがある気がした。  ミカと過ごした基礎課程の六年間、ヤムセやテヨル、バドを困らせてばかりいた専門課程の十ヶ月。《キツネ》との再会と別れ。  別れ──。  リティーヤは制服をできるだけ丁寧に畳んだ。  この一週間はヤムセとロードマスターのペースで振り回されて、一人でこうしてぼんやり荷物の整理をする時間などなかった。……過去を振り返り、思い出をなぞることも、後悔することも、失ったものの重みを再確認することも、できなかった。  忙しいのはいいことだ。慌ただしく、考える暇もなく時間が過ぎていくのはいいことだ。  リティーヤは鞄の底に制服をしまった。 《キツネ》は死んだ。  七年前数ヶ月をともに過ごし、年月を経て今度は人の姿を取って現れた彼は、死んだのだ。  胸にぽっかりと穴が空いたようで、そこを覗き込むと虚無を見つめているような、不安な、恐ろしい気持ちになる。まるで自分の一部がなくなったみたいだった。それでもリティーヤはその闇を覗き込んだ。虚無の正体を、わかっていたからだ。  胸を切り裂くような痛みが、はっきりとそのことを教えていた。  リティーヤは、彼が好きだったのだ。  弟みたいに、彼を愛していた。  彼との日々を、大切に思っていた。  だから、彼が失われたことで、自分の人生までえぐられたように感じるのだ。  リティーヤは震える手で鞄を閉じ、鞄を枕のようにして突っ伏した。長い金髪が鞄から床に垂れた。顔はその金髪と鞄で隠れ、たとえ誰か入ってきたとしても疲れて寝ているだけに見えたかもしれない。 《キツネ》がリティーヤに望んでいたのはリティーヤが自由に生きることだ。それを手に入れるためには、《学園》にも《風と八月党》にも負けてはいられない。ヤムセやロードマスターにすべてを任せてはダメだ。《キツネ》と過ごした日々は失われてなんかいないと、自分自身に証明しなければならない。彼によって与えられた力を使って運命を切り開くことで、自分はきっとそれを証明できるはずだ。リティーヤはそう確信していた。  ……ただ、時間が必要なのもわかっていた。ヤムセが帰ってくるのは夜だ。その前には立ち直れる。夜には、リティーヤは顔を上げられる。  だから、今は。 「……ふ……」  肩で息をして、か細い嗚咽を吐き出した。  今、彼女を押さえつけるものは何もなかった。ロードマスターもヤムセもおらず、支えてくれる人も心配してくれる人もおらず、自由にたっぷりと虚無の沼に浸っていられた。  その午後の時間を、リティーヤは純粋に《キツネ》のためだけに使った。  泣き疲れて、いつの間にか眠っていたらしい。気が付くとベッドの中でシーツにくるまっていた。鞄の上に突っ伏していたはずなのに。リティーヤは重くなった瞼を持ち上げ、ベッドに肘をついて身体を起こした。部屋のカーテンはまだ開いていて、淡い夕暮れの光が差し込んでいた。その時人の気配を感じて、リティーヤはベッドの上で振り返った。 「せんせ……?」  だが、振り返った先にいたのは、恰幅の良い中年女性だった。ヤムセに抱きつき、キスの嵐を食らわせていた、乳母だったという女性だ。彼女はにっこりと笑って、ベッドのそばに置かれた鞄を指した。 「勝手なことをとは思いましたが、荷物は詰め直しておきましたよ。疲れてたのかしら? ここにいる間は、ゆっくり休んでくださいね」  頼りになりそうな太い腕で、彼女はリティーヤの肩を押さえて優しくベッドに横たわらせた。 「あの……はい。ありがとうございます」  リティーヤは目がまだ赤いかもしれないと思い、ちょっと目を伏せてそう答えた。それから、自分が目の前の女性に勘違いされたままなのを思いだし、ハッとしてまた顔を上げた。 「あ! ええと、あたし違うんです。説明しそびれちゃったんですけど、先生は単純にあたしが困ってたから連れて来てくれただけで。そういう、ええと、先生の子どもを産む人間じゃないんです、ごめんなさい!」  相手を失望させるだろうとは思ったが、黙ったままだとヤムセまで困らせることになりかねない。それに婚約者や恋人だと思われて、良い扱いをされるいわれはないのだ。 「いいんですよ、お嬢さんがそういう相手じゃないのはもうわかってますから」  だが、女性はあっさりそう言った。 「ぼっちゃまから説明していただきました。こちらこそ申し訳ありません! そうですよ、ぼっちゃまと……なんて、もったいないお嬢さんですものね。でも、あんまり可愛くて」  にっこりと笑って、リティーヤの頰を冷たいタオルで拭いてくれる。 「ぼっちゃまにとって、大事なひとなんだろうっていうのは一目でわかったもんですから