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作者:菅沼理恵
类型:乙女向 书籍样本 日文
出版:2016-12-28(角川书店)
价格:¥494 原版
文库:角川Beans文库
丛书:星宿姫伝(10)
代购:lumagic.taobao.com
星宿姫伝 くろがねの初陣 星宿姫伝 くろがねの初陣 菅沼理恵 角川ビーンズ文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載したりすることを禁止します。また、 本作品の内容は、底本発行時の取材・執筆内容に基づきます。  少女たちの話し声は軽やかで明るく、白雪は耳にするたび微笑ましい気持ちになる。 「……でね、……なのよ……」 「まあ、……じゃない……」 「……ったから…………で……」  さざめくような笑い声。  自分も三年前はああいうふうだったのだろうかと、白雪は懐かしい気持ちになった。  今はそうでもないが、十四で育ててくれた人を失って天涯孤独になった白雪に、古くからのしきたりや因習に囚われている神杖はさほど魅力的に感じられなかった。  回廊沿いの植え込みの陰の床几に腰かけて、白雪はぼんやりと物思いにふける。  白雪は生まれて半年と経たないうちに、母親の意向で生国の神杖を出された。以来、育ててくれた朱月と別れて十四で帰国するまで旅路にあり、生まれ故郷についてほとんど知らぬまま育った。  母の死後、国に戻らざるを得なかったが、古くからつづく神杖のしきたりなぞまったく知らない白雪は困惑した。しかも白雪は、それまで自身が知ることはなかったが、神杖の王族で、もっとも聖王位に近い血統を有していたのである。  母の白鷺はこの国を守る斎宮であり、白雪はその後継となるべく義務づけられていた。左手のひらにあった火傷の痕は、そのしるしだったという。  流れる旅の中で育った少女は、国を鎖し自らの文化だけで充足していた神杖では野蛮な小娘に見えたようだ。そのため白雪は、国の守護の要である斎宮になると決めてから、なったのちも、行儀作法や教養を身につけるため、側仕え見習いのひいなとして過ごすことを余儀なくされた。  周囲の者たちがそのように取りはからったのも、実は行儀作法や教養などは二の次で、主たる目的は同年代の少女たち、ひいては他者とどのように接するかを教えるためだったのではないかと今は思う。それまでの白雪は無意識に、旅の同行者であり父と信じていた朱月だけが対等な人間であり、他は風景や器物とさほど変わらぬ存在と感じていたからだ。  そのせいか新しく出会った人々には、白雪の態度は粗略と受け止められたようだ。それほどまでに当時の自分は他人とのやりとりに慣れていなかったと、今の白雪にならわかる。  ──あのころの白雪にとっては、ともに旅していた朱月がすべてに等しく、他には何もいらなかったのだから。 「しら……小雪」  半ば目を閉じかけていた白雪は、名を呼ばれてはっとした。目を上げるとすぐそばに蘇芳が立っている。 「どうしたんだ、こんなところで」  蘇芳がいぶかしげにそう言いながら近づいてくるのへ、白雪はそっと自分の口に指を立てた。 「……みんなの話を聞いているの」  隣に腰かけた蘇芳に囁きかけると、彼も植え込みの向こうを透かし見るように振り向いた。 「ひいなたちは、何をしてるんだい?」  白雪の真似をして、蘇芳も囁く。 「おつとめで、回廊の柱の装飾を磨いてるのよ」  答えてから白雪は微笑んだ。「わたしもよくやったわ」  昨年、正式に斎宮と聖王を兼職する斎王となったが、白雪は小雪と名乗り、今も側仕えとしてこの天藍城内で働いている。  もちろん、側仕えの小雪が、斎宮の楓院白雪姫宮であった斎王の桜院雪月だと知る者は限られる。  斎宮だった新しい斎王の顔かたちなぞしもじもの者は知らないから、白雪が側仕えとして城内をうろついていてもまったく咎められることはなかった。そうでなくとも白雪は、斎王として衆目にさらされるときは銀髪に空色の瞳という生まれつきの色合いに戻るが、ふだんの生活では黒髪黒瞳に見えるよう、自身に光を曲げる目眩ましの術をかけている。  今は黒髪を結った側仕えの姿だから、蘇芳は白雪を『小雪』と呼んだのだ。 「……ってば!」  ひときわはずんだ声に、白雪に目を向けていた蘇芳が、おや、という顔をした。再び植え込みの先に神経を向けている。 「だって、これは絶対はずしちゃいけないって言われてるのよ」 「……茉莉だ」  蘇芳が呟く。とたんに案じるような顔つきをするのが、白雪には微笑ましい。  蘇芳は斎宮を守る騎士だった。その流れを汲んで今は斎王を守る近衛である。茉莉は彼にとって姪に当たる少女で、王族の血を引いていることを隠し、城内でひいなとして働いていた。 「誰に?」  不思議そうな別の少女の声がする。 「に……兄に」 「あなたったら救慰寮あがりなのに、兄なんているの?」  別の少女が、嘲りを帯びた声で指摘した。思わず立ち上がりかけた蘇芳の腕を、白雪はそっと引く。 「待って、ようすを見ましょう」  ひいなとして城に上がる少女たちの身分はさまざまで、貴族の令嬢や豪商の娘もいれば、平民の少女もいる。そのため歴然とした力関係や上下の差ができることもままあった。白雪も、ひいなになったばかりのころは、流れ者だったくせにとやたら突っかかられたりしたものだ。とはいえ、それは自分の性格が人と馴染みにくいせいだったのは後年になって理解できていた。  城下の遊里、花扇近くの救慰寮の出身である茉莉は、気はいいので白雪と違って友だちも多いようだが、その人気を妬んだ者に何かと出身を当てこすられているらしい。 「いるわよ」  茉莉の声が晴れがましげな色を帯びる。「これは、兄がくれたの。これをつけていたら、離ればなれになっても居場所がわかるんだって」  以前の拙い語調が思い出せないほど、城に上がってからの茉莉は明瞭にしゃべるようになっていた。 「あなたのお兄さんは竜珠なの?」 「違うわ」 「なのに、こんなものであなたの居場所がわかるなんて、おかしいじゃない」 「……」  詰るような言葉に、茉莉は押し黙ってしまう。 「蘇芳はここにいて」  白雪はそっと言い置くと、植え込みの陰から回廊に出た。 「みなさん、そこで何をしてるの?」  少女たちの集団に近づいて声をかけると、ぎくりとしたように年嵩の少女が振り向いた。 「あ、……小雪さま」  御庭係の小雪は、ひいなや側仕えにそれなりに顔が知られている。声をあげたのは、茉莉を詰っていた少女のようだ。その正面に立っていた茉莉は、白雪の声にはっとした表情を浮かべた。その目には救いを求める色が滲んでいる。 「いいえ、その、……この子が不相応な腕環を身につけていたから、注意していたんです」  気を取り直したのか、少女は勝ち誇ったように告げた。「この子はしもじもの出だから、きっと誰かから盗んだんだと思ったんです」 「違います!」  茉莉がきっと少女を睨みつけた。「これは、兄からもらったものだって、」 「まあ」  思わず白雪は声を立てて笑った。当の少女と茉莉だけでなく、周りで成り行きを窺っていた他の少女たちも、場にそぐわぬその明るさに驚いたように目を瞠る。 「あなたはとても優秀な術使いなのでしょうね。『その子が盗んだと思った』だけで、証拠もないのに、そうやって糾弾してしまうのですから」  白雪は、少女をじっと見た。「人の心の中がわかって、よほど自分の判断に自信がなければできない行いです。それほどまでに自分が偉いと思っているのですね。──恥ずかしくはないのですか?」  白雪の遠回しな嫌味が理解できたのだろう。少女は真っ赤になり、次いで真っ青になった。 「さきほどから聞こえていましたが、あなたはその子が救慰寮の出だからと蔑んでいましたね。あなたはたいそうな名家の出なのでしょうね」 「わ、わたしは耕州の、商家の出で、」 「そんなことは訊いていません」  白雪は声を低めた。  とたんに、少女が怯えたように後退る。 「どこの出であろうと、それを理由にして、証拠もないのに人を物盗りと決めつけるのは、どうかと思いますよ」  にっこり笑いかけると、少女はうつむき、口もとに手を当てた。 「ごめんなさい……」  かぼそい謝罪が聞こえる。 「わたしに謝る必要はありません。ですが、あなたが一方的に決めつけて疑った相手には、謝罪すべきではないですか?」  白雪の言葉に、うつむいたままの少女は耳まで赤くなった。羞恥と怒りのためだろう。  それでも白雪が促さず黙っていると、少女はのろのろと茉莉のほうを向いて、白雪に向けたよりもっとかすかな声で、ごめんなさい、と言った。  茉莉はそれを見て、困惑したような顔つきをしている。難癖をつけられ侮蔑されたとしても、その相手をこのように人前で屈服させるのは望まなかったのだろう。やり過ぎただろうかと白雪も考えないでもなかったが、この後に何度も同じことを繰り返すよりはましかと思い直す。 「これで仲直りね。──おつとめが終わったなら、監督の方に報告しに行きなさい」 (茉莉、休み時間になったら、斎宮殿にいらっしゃいな)  竜珠のあいだで交わされる心語で呼びかけると、茉莉がかすかに了承の意を返してくる。茉莉の竜珠は弱いから、心語も白雪のように明確な言葉にはならないのだ。  白雪はくるりときびすを返して、来たほうへ戻り始めた。  斎王の御庭係の小雪が斎宮殿にいても不自然ではないのだが、白雪は斎宮殿では目眩ましの術を解き、銀髪と空色の瞳に戻るように心がけている。  茉莉の休み時間は夕刻の少し前、ちょうどお茶のころだった。 「陛下、茉莉さまがいらっしゃいましたよ」  斎宮殿詰めの側仕え、夏乃は、老いてはいるものの矍鑠としていて、白雪を親身になって叱ってくれるありがたい人だ。 「ありがとう、ゆきね、……白雪さま」  夏乃に招き入れられた茉莉は、開口一番、そう言って頭を下げた。  礼法を身につけ始めてから、茉莉は以前のように白雪を『ゆきねえちゃん』と呼ぶことはなくなった。咄嗟のときは出てしまうようだが、意識して直すように心がけているらしい。大人になりつつあるのが見て取れて、白雪としては微笑ましさと同時に淋しさも感じていた。 「あのとき、白雪さまが来てくれなかったら、あの子のこと、殴っちゃってたかも。いつもああやって突っかかってくるんだもの」 「そうならないように出ていったのよ、ねえ蘇芳」  白雪の招くまま長椅子に腰かけた茉莉は、隣の書斎から姿を現した蘇芳に驚いた。 「すう、……蘇芳さま」 「よく我慢したな、と褒めたかったんだが……今のを聞いたら褒められないな」  蘇芳はやや呆れたように呟くと、茉莉の隣に腰かける。「いつもあんなことを言われているのか?」 「あの子にはね。他の子はあんなに下品なことは言わないけど、あの子はわたしが嫌いみたい。すぐに、救慰寮から来たくせにってうるさいの。本当のことだから別にいいけど、だから物盗りだって決めつけられるのは、やっぱりいやだわ」  茉莉は沈んだ顔をした。「青磁もこういう思い、したのかな」 「……」  蘇芳は口を開きかけたが、何も言わず茉莉の頭を撫でた。  蘇芳と青磁の他にふたり、琥珀と黒曜を加えた四人は先代聖王の子として育てられた。しかし蘇芳と青磁は城外で生まれ、その後、それぞれの母とともに城に迎え入れられたので、生まれが卑しいと陰口を叩く者も少なくはなかったのだ。特に青磁は母が妓女で、自身は生まれてから入城が認められるまでの二年間、茉莉のいた救慰寮で過ごしていたため、幼少のころはかなり虐められたらしい。  四人は親王の身分を与えられて城内で育ったが、長じて臣下に降り、斎宮の白雪を守る騎士となった。白雪が斎王となったと同時に騎士の位を返上し、四人で近衛隊を形成している。今は騎士でなく近衛と呼ばれ、頼りない形だけの王と軽んじられる白雪を支えてくれる心強い存在となっていた。 「そうかもしれないわね。青磁はちいさいころは泣き虫だったそうだから、きっといじめられたら反論もできずに泣いてたんじゃないかしら。ねえ蘇芳」 「……当たらずといえども遠からずだな」  蘇芳は言葉を濁した。茉莉は不思議そうな顔をする。 「それ、琥珀にい、……琥珀さまにも聞いたけど、今でも信じられないわ。あの青磁が泣き虫だったなんて」  人前ではときには冷淡に感じられるほど落ち着き払っている青磁だが、その実、情愛はたいへん濃やかで、自分がたった二年しかいなかった救慰寮に身を寄せている子どもたちを実の弟妹のように思い、成人しても必ず半月に一度はようすを見に行くほど気に懸けていた。  そのように、青磁の内面がひどく感情的だと知っているのは身近な者ばかりだ。 「人は変わるものだから」  蘇芳はそう言うと、茉莉に微笑みかけた。  蘇芳の父は茉莉の祖父でもある。蘇芳は長く実の父を忌んでいたが、茉莉とのつながりを知ってからは気に留めなくなったようだ。ある意味で茉莉の存在は蘇芳の救いになったのだろう。 「おまえはまだちいさいからよくわからないかもしれないけれど、時間は人を変えるんだよ。おまえにひどいことを言ったあの子だって、十年経っても同じことを言うとは限らない。十年前の自分を恥じるようになっていれば、それは成長したということだ」 「成長……」  茉莉は叔父を見上げて繰り返す。「変わってしまうことが?」 「そうだ。おまえも、城に上がる前とあとでは変わっただろう。話し方や作法も身につけたし、読み書きもすらすらできるようになった。──以前よりよく変わっていくことが、成長なんだよ」 「……心配だわ」  言い聞かせるような蘇芳の言葉に、何故か茉莉は顔を曇らせた。 「何が心配?」  白雪が不思議に思って尋ねる。  茉莉は、手首を押さえた。  茉莉の左手首には、いつも飾り紐が巻かれていた。明るい糸で編まれ、いくつか作られた結び目には淡い薔薇色の水晶が留まっているが、たいした値打ちものではない。しかし、茉莉にとっては宝物以上だった。 「にゃにゃが、……早く会いに来てくれないと、わたしのこと、わからなくなってしまいそうだと思って」 「……だいじょうぶよ」  白雪は微笑んだ。  にゃにゃとは、茉莉にとって兄に当たる救慰寮出身の少年、七樹のことだ。三年前に救慰寮を出て行き、一度は戻ってきたが、それきり音信がない。  茉莉は一度戻ってきた七樹にその飾り紐をもらって、以来、肌身離さず身につけていた。その飾り紐があれば、茉莉がどこにいても捜し出せると七樹が言ったそうだ。 「きっとわかるわ。何年経っても、きっと」 「白雪さまがそう言うと、本当にそんな気がしてくるわ」  茉莉はにっこり笑ってうなずいた。  白雪にとって三度めの神杖の夏が過ぎようとしていた。  内陸に位置する神杖、特に天藍の夏は厳しい。気温が上がらずとも蒸されるような湿気が強いのだ。昼夜の寒暖差のため、朝は靄がかかり、夕には霧が立ち込めることも少なくなかった。  茉莉が蘇芳とともに斎宮殿を辞したのち、夕闇の中、白雪はぼんやりと斎宮殿の入り口に立って前庭を眺めていた。  茜色の夕陽に照らされた庭園は美しい。その中を飛び交う幻視の光に、白雪は感嘆の溜息をつく。  神杖の為政者は本来ならば聖王と呼ばれる位に就くが、白雪は王位にありながら斎宮でもあるという特異な身分なので、斎王と呼ばれる。  斎宮が聖王を兼ねることは、長い神杖の歴史の中でも滅多にない。これは、国祖の直系と認められて、王位に適していると判じられたのが白雪だけだったためだ。  もちろん他にも王族は存在するし、王族でなくとも国祖の血を引く者は無数にいる。だが神杖の王家は、代々の斎宮の霊である彩姫に直系と認められた血統を守る慣習があった。そのために、先々代聖王の孫であり先代斎宮の娘でもある白雪が位を継がざるを得なかったのである。  この国に戻ってきてから、白雪の身にはいろいろなことがあった。──本当に、いろいろなことが。  おかげで、無知で何もできない少女からは脱却できたと思う。  それでも自分はまだまだ未熟だと感じはする。もっとがんばらなければ、といつも思う。そう思える自分がありがたいし、うれしい。  蘇芳が茉莉に言っていたように、自分も少しは成長できただろうか。 「白雪、眠いのか?」  夕陽で長く伸びた影から、するりと少年が現れた。  長きにわたってくろがねの輝石に封じられていた彼は、白雪によって灰桜と名づけられている。愛らしい子どもの姿をしているが、本人が語るには、一万年以上の長きにわたってこの世に存在しているという。──また、その間に奪った命は数え切れないとも。  彼は縁あって死にかけていた朱月と和合し、三千年の長きにわたって朱月を支えその輝石の力を貸していた。  人の持つ憎しみという感情を糧にして存えてきたくろがねの輝石は、朱月から憎しみが失われた瞬間、その体から離れた。そして次なる棲み処として、白雪の、烙印のあった左手を断ち落として入り込んだのである。  彼は白雪の中に入って初めて、憎しみ以外の明るい感情が心地よいものだと知った、と言う。灰桜は白雪の中では憎しみを糧として得られないが、それでも存在を保てるのは、白雪が胸中で育む情愛のおかげだから、白雪の役に立ちたいと主張するのだ。  その主張と外見のせいで、白雪は彼の言動を健気に感じてしまう。 「あら、わかっちゃった?」  白雪の答えに灰桜はうなずいて、足もとの石段に腰かけた。 「朝、早いのに、夜更かしするからだ」  責めるでもなく灰桜は呟く。「あんなに根を詰めて調べものをするくらいなら、俺も手伝うぞ」 「ありがとう、灰桜」  灰桜の気遣いが微笑ましく感じられ、思わず白雪は微笑む。だが、灰桜は書物に残った念を感じ取れても、文字を読み書きすることはできないのだ。訓練すればできるのかもしれないが、試してはいなかった。 「そんなに、あの件が気にかかるのか」  あの件とは、夏の初めに起きた、子どもの連れ去り事件である。事件そのものは、人身売買目的の犯人が複数名摘発されて落着していたが、白雪にはどうしてもひっかかることがあった。 「ええ。あの人、犯人の中にはいなかったでしょう。それが気になるの」  子どもを連れ去ろうとした現場を目撃した白雪が、憤慨して調査に乗り出し、灰桜の協力を得て事件は解決した。だが、白雪が最初に見た連れ去り犯は、捕縛された犯人たちの中にはいなかったのである。 「それを近衛にも言わないのは、どうしてなんだ?」  問われて白雪は笑みを消した。 「……心配させたくないの。それに、あれ以来、連れ去り事件は起きていないでしょう。あの人がたまたま捕縛の場にいなかっただけで、本当は犯人たちの仲間だったのかもしれないし」 「だったら捕まった犯人たちの取り調べで名があがるはずだろう」  灰桜は白雪の考えを読んだかのようにつづけた。  実際には、灰桜に白雪の思考は読み取れない。なのにこのように察しているのは、よほど白雪がこの件について考え込んでいるように見えるときがあったのだろうか。幼く見える灰桜は、その実、経てきた歳月相応に聡い。 「白雪は、……あの男が何をしていたのか知りたいのか」  重ねられた問いかけは、自問のようにも聞こえた。白雪はいぶかしく思って灰桜の顔を覗き込む。 「灰桜?……あなた、あの人が怖いの?」  灰桜はびくりと肩を震わせた。その可憐な顔がかすかに歪む。  ゆっくりと視線を白雪に合わせる。 「これが、怖いということなのか?」  灰桜はたどたどしく呟く。「あの男、……知ってるにおいがしたんだ」 「知ってる、におい」  白雪は繰り返す。灰桜はちいさくうなずいた。 「俺は、昔のことは忘れるようにしてきた。憶えていても悲しいから……だけど、どんなに時を経ても、忘れたつもりでも、自分の奥底に眠っているものがある。あのにおいは、それに似ている気が、するんだ」  灰桜は、何か苦いものでものみ込むようにゆっくりと目を閉じた。  どんなに時を経ても忘れられないこと。  それは白雪にもある。胸の中で凍りついている、冷たいかけら……  白雪は黙って灰桜の傍らに腰をおろした。その小さな肩を抱き寄せると、体の触れ合った部分からほんのりとぬくもりが染みてくる。