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作者:阿部暁子
类型:乙女向 书籍样本 日文
出版:2016-10-25(集英社)
价格:¥594 原版
文库:Cobalt文库
丛书:鎌倉香房メモリーズ(4)
代购:lumagic.taobao.com
鎌倉香房メモリーズ4 (集英社オレンジ文庫) 集英社eオレンジ文庫 鎌倉香房メモリーズ4 阿部暁子 この本は縦書きでレイアウトされています。 本書は書き下ろしです。 目 次 第 1 章 五文字の言葉と遠ざかるひと 第 2 章 クリスマスと丘のうえの家 第 3 章 罪と毒 第 4 章 約束と冬の終わり イラスト/げみ 1  青い顔で階段を駆け上がってきた雪弥さんの姿を、今もはっきりと覚えている。  東日本大震災が起きた翌日の土曜日だった。あれほどの惨事が起きたというのに、朝起きると空はまっ青で、ひんやりした空気も洗いたての水槽の水のように澄んでいた。前日の夜、遠方の香会に招かれていた祖母は鎌倉へ帰ってくることができず、わたしはひとりで夜を過ごして、翌日、祖父の見舞いのために家を出た。休日の駅前は普段なら人であふれかえっているのに、その時は別の街に迷いこんでしまったのかと思うほど人の姿が少なく、誰かとぶつからずに歩くのが難しい小町通りでさえ閑散としていた。  お昼の前、少し休んでおいでと祖父に言われ、わたしは病室を出た。そして階段を下りている途中、急に下から角を曲がってきた人とぶつかりそうになって立ちすくんだ。  それが誰なのか理解する前に、心がざわめいた。  今自分が何歳だったか、どこに立っているか、時間軸を一瞬見失って、めまいがした。  雪弥ちゃん、という声が喉まで出かけて、でも目の前の人は、もう「ちゃん」だなんて呼べそうもなかった。フレームの細い眼鏡をかけ、二段も上に立っているわたしとほとんど変わらないくらいに背が高く、男の子か女の子かよくわからなかった色白の顔は、もう聡明そうな男の人そのものだ。わたしは長い間ぼうぜんとその人を見つめてから、やっと、砂粒みたいに小さな声で、雪弥さん、と呼んだ。  眼鏡の奥で目を大きくしていた雪弥さんも、香乃さん、とかすかな声を返した。 「昨日、大丈夫でしたか」 「昨日……?」 「地震」  わたしは、まだ頭がぼんやりしたまま頷いた。 「怖かったけど、学校にいた時だったし……雪弥さんは?」 「僕も、何ともありませんでした。お店に行ったんですが誰もいないみたいだったので、貞臣さんの家に行って、そうしたら、銀二さんがここに入院していると聞いて」  わたしはまたぼんやりと頷いた。急にいなくなってしまい、何年も会っていなかった人が突然現れて、頭はとても混乱しているのに、普通に会話できていることが奇妙だった。ふわふわした頭のまま、わたしは雪弥さんを祖父の病室へ案内した。  祖父は白い布団にくるまれて眠っていた。ベッドのそばに立った雪弥さんから、うっすらと苦しげな香りが漂ったことを覚えている。雪弥さんの中では、祖父はまだ還暦を迎えたばかりの元気な姿のまま止まっていたはずだ。そこからいっきに数年分の歳をとり、さらにはずいぶん瘦せてしまった祖父の姿に、ショックを受けたのだろう。 「――ああ、ユキじゃないか」  気配を感じたのか薄目を開けた祖父は、おや、というようにまばたきすると、のどかに笑った。やせっぽちの男の子が、いきなり背の高い青年になって現れたことなどものともせず、まるで昨日も雪弥さんは花月香房に遊びに来たというみたいに、祖父のほほえみには親しさと愛情があふれていた。  雪弥さんは目もとを引きつるように震わせて、小さく頭を下げた。  それから雪弥さんは、低く変わった大人の声で話をした。中学に進学してすぐ花月香房に顔を出さなくなったのは、東京の学校に転校したからだということ。今も東京で高校に通っていること。そのうちタクシーで鎌倉に帰ってきた祖母が病室にやって来て、雪弥さんを見るとものすごく驚き、雪弥ちゃん、と数年前と変わらない呼び名を使いながら雪弥さんの手を握って笑った。祖父が入院して以来、祖母がそんなふうに心から喜びの香りをさせたのはひさしぶりのことだった。 「銀二さんの具合は、どうなんですか?」  好きな飲み物を買ってらっしゃい、と祖母からお金を渡されて、二人で病室を出て売店へ向かう途中、雪弥さんはわたしにだけ届くように抑えた声で訊ねた。  わたしはようやく雪弥さんが突然現れたことをのみこむことができて、冷静といってもいい気持ちでいた。それなのに、説明の言葉を組み立てて、いざしゃべろうと雪弥さんを見つめた瞬間、いきなり鼻の奥が熱くなった。風邪をひいた時みたいに喉が腫れぼったく渇いて、涙が勢いよくあふれ出した。そんなつもりは、本当になかったのに。  口もきけず、必死に目もとをぬぐいながらしゃくりあげるわたしのそばに、雪弥さんは黙って立っていた。そのうち、ためらいがちに頭に手が置かれ、髪をなでられた。そっと、不器用に、どこまでもやさしく、何度も。 「携帯電話は持っている?」  わたしは目もとに手の甲を押し当てたまま頷いた。本当は高校に合格したら買ってもらえるはずだったが、もし祖父の容体が急変したらすぐに連絡がとれるようにと、その少し前に両親からスマホを買い与えられていた。  雪弥さんもコートのポケットから、黒いスマホをとり出した。電話番号やメールアドレスを交換したあと、雪弥さんはわたしの目を見つめた。 「何か困ったことがあったら、連絡してください。何もなくてもいいから、何曜日でも何時でもいいから、僕にできることがあったら言ってください」  また泣き出しながら、わたしはスマホを胸に当てて何度も頷いた。とても大きくて向こうを見通せない不安の前にたったひとりで立っていたような気持ちが、そこに雪弥さんとつながる細い糸があると思うだけで、ほんの少しだけやわらいだ。いつまでたっても泣きやめないわたしの頭を、雪弥さんはまたそっとなでてくれた。  それから雪弥さんは、二週間に一度くらいの頻度で祖父の見舞いに来てくれるようになった。大学受験の準備で大変だったはずなのに、病室で高校受験用の問題集を解くわたしにわからないところを教えてくれたり、東京の高校の様子を話してくれたりした。そんなわたしたちをベッドからながめる祖父は穏やかにほほえみ、祖父が入院して以来、明るくふるまいつつも気をはりつめさせていた祖母も、持ち前の生気にあふれた香りをとり戻した。あのころ、じきに訪れるかなしみの前で途方にくれていたわたしたちに、雪弥さんは短いけれど幸福な時間をくれたのだ。  けれど、本当だったら雪弥さんは、鎌倉の街にも、わたしたちのもとにも、もう戻ってくるつもりはなかったのではないか。  あの大地震が起きなければ。祖父がもう治らない病に蝕まれていなければ。わたしが、あの時、声も出せずに泣きくずれなければ。 * 「平安時代から伝わる練香の『六種の薫物』を、春夏秋冬の順番で挙げてください……」 「はい! 『梅花』、『荷葉』、『侍従』、『菊花』、『落葉』……うう?」 「『黒方』……」 「ああー、それだ。それいっつも忘れちゃうんだよな。名前がほら、ほかのやつだと何となく意味わかるんだけど、何? 『黒方』って何なんだろう?」 「『黒方』って、お正月とか冬のお祝い事の時にたく格調高いお香ですよね……黒って冬の象徴の色だから、そこからきてるのかも……」 「そうなの!? チヨちゃんすげー。ちょっと待って、メモするメモする」 「では次の問題です……常温でもよく香るので、匂い袋や文香などの香料として使われる大茴香ですが、料理の香辛料としても有名です。大茴香の別名は何でしょうか……?」 「ううー……ね、気分変えてまた源氏物語のところやらない? おれ、源氏物語ならわりと得意なんだ。大学受験の時にナツ姉さんの漫画借りて全巻読みこんだから」 「テストって、得意なことだけやっていい気分になるためじゃなく、自分が何をわかってないのか知るためにするものじゃないんですか……?」 「ぐはっ、なんか今すごく鋭利なものが胸にブスッと……!」  紺色の作務衣に同じ色の羽織をかさねた高橋さんが胸を押さえてよろよろと後ずさり、勘定台前の椅子にちょこんと座ったチヨちゃんは、大きく分厚いグレーのファイルをめくって次の問題を吟味する。わたしは陳列棚にハタキをかけながら、そんな二人の様子にくすくす笑ってしまった。  十二月も下旬に入ると、空気が氷を浮かべた水のように冷たくなった。鎌倉じゅうをあざやかに染めた紅葉も終わりが近づき、力尽きたようにあちこちへ散らばった色とりどりの落ち葉の、その土に還っていく甘い香りを風が運んでくる。わたしとチヨちゃんが通う県立高校では、ちょうど昨日が終業式で、今日から冬休みが始まった。 「チヨちゃん、ちょっと休憩したら? 高橋さん、もう一時間くらいがんばってるし、少し休んだほうが調子上がるかも」  わたしの提案に、普段はいたって控えめで慎ましやかなチヨちゃん(本名、松木八千代)は、うさぎっぽいつぶらな瞳に峻厳なる光をやどらせた。 「香乃ちゃん、甘いよ……。男子大学生は、ビシバシやらないとすぐにたるんで『お釈迦さまの気持ちを感じてくる』とか言ってインドに逃避したりする生きものなんだよ……」 「チヨちゃん、またお兄さん、大学さぼってインドに行っちゃったの……?」 「うん、そうだよね。チヨちゃんの言うとおり、苦手なこともこつこつ勉強しないと身につかないよね」  腰に手を当てた高橋さん(本名、高橋健太郎)は、自分を戒めるようにため息をついた。この素直に人の意見を聞き入れる柔軟な性格が、高橋さんの魅力だ。心を入れかえるように高橋さんは、ほがらかな笑顔をチヨちゃんに向けた。 「付き合ってくれてありがとね、チヨちゃん」  くしゃくしゃ頭をなでられたチヨちゃんは、背すじを伸ばして硬直した。そしてペシッと高橋さんの手を叩きおとすと、すばしっこくわたしの背中に隠れた。 「あ、ごめん! チヨちゃん、うちの小学生の妹とサイズが似てるから、つい」 「小学生」 「うん、千波っていってね、ちょっとわがままなんだけどこれがかわいいんだよねー」 「小学生」 「チヨちゃん、高橋さんはチヨちゃんが小さいとか子供っぽいとか、そういう意味で言ってるんじゃないの! 本当に妹さんがかわいいだけで悪気は一グラムもないの!」  しゅるしゅると怒りの香りを立ちのぼらせるチヨちゃんをあわててなだめていると、 「あらあら、にぎやかだこと」  勘定台の裏にある店と母屋をつなぐ木戸が開き、祖母の三春が出てきた。今日の着物はミルクティーみたいな枯れ色に無数の白の花びらを散らした、むじな菊の小紋で、結い髪に挿した南天のような赤いとんぼ玉のかんざしも決まってる。南天といえば、今日わたしが着ている着物の柄もこれで、雪が積もったような乳白色の地に、ちらちらと細かい緑色の葉と小さな赤い実が映える、南天柄の小紋だ。 「今日はあんまりお客さん来ないわねぇ。高橋くん、ちょっと早いけど、お昼どうぞ」 「でも今日まだ全然働いてないし……おれ、外に出て売ってきましょうか? ほら、駅弁売ってる人が首からかけてる箱――あれって何て言うんだろな――ああいうのにお香入れて、報国寺とか杉本寺とか鎌倉宮とか歩いて出張販売してきましょうか!」 「私、高橋くんのそのポジティブでガッツのあるところ大好き。このまま何日も閑古鳥が鳴くようだったら、それも検討しましょ。とりあえず今はお昼食べて休憩してちょうだいな。チヨちゃんも、鶏の唐揚げたくさん作ったからお腹いっぱい食べてね」 「唐揚げ、とっても大好きです……」 「香乃ちゃんも、みんなとごはん食べてらっしゃい。あとはおばあちゃんがやるから」  うん、とわたしはハタキを祖母に渡した。高橋さんに働いてもらうようになってから、お昼はわたしと高橋さんが先にすませ、そのあとに祖母が昼食をとるのが何となく決まりになっている。今日はチヨちゃんが泊まりに来てくれたので、祖母はチヨちゃんの大好物である鶏の唐揚げを、これでもかというほど作ってくれたらしい。  三人でワイワイと台所でご飯やお味噌汁を準備して、茶の間のちゃぶ台でいただきますと手を合わせた。チヨちゃんの叱咤でやる気が燃え上がったらしい高橋さんは、食事中もお香にまつわる問題を出してもらい、うんうん唸る高橋さんをわたしは応援した。  店で別れたばかりの祖母が、茶の間の引き戸から顔を出したのは、昼食を始めてそれほどたたない頃だった。小首をかしげながら祖母は、香乃ちゃん、と呼んだ。 「香乃ちゃんにお客さんよ。大学生くらいのきれいな女の子」 「え……わたし?」 「そう。ちょっと店に来てもらえる?」  大学生? 誰だろう。とまどいながらわたしは祖母に続いて台所のすみにある木戸をくぐった。わたしの後ろには、なぜか興味しんしんの様子でチヨちゃんと高橋さんまでついてきて、ぞろぞろと一行は陽の射さない短い通路を進んだ。  木戸を開けた祖母のあとから店に入ったわたしは、勘定台の前に立っていた女性と目が合った瞬間、声をもらしそうになった。  けれど、わたしよりも速く後ろにいた高橋さんが声をあげた。 「あれっ、十和子さん?」 「高橋? え、なんであんたがここに?」  ベージュのトレンチコートを着た十和子さんは、目を大きくみはって驚いた。  連城十和子さんとわたしが会ったのは、今年の春の終わりだ。  わたしが通う県立高校では、大学受験の参考にするために近隣大学に入学した卒業生に構内を案内してもらうキャンパスツアーという行事がある。わたしとチヨちゃんは横浜の国立大学に赴き、そこで十和子さんと知り合った。本当のことを言うと、わたしはとある事情からその前にも彼女と会っていたのだけれど、それはチヨちゃんには話していない。十和子さんは、高橋さんも所属する大学の投資サークルの代表を務める三年生だ。 「ていうか高橋、何なのその恰好」 「えへへ、似合います? 着物にも挑戦したんですけど、おれどうしても帯がうまく結べなくて、そしたらおばあちゃん、あ、こっちの三春さん。三春さんが貸してくれて」 「そういうことじゃなくて、どうしてあんたがそんな恰好でこのお店に」 「え? それはバイトで」 「どうしてあんたが? 岸田がここ辞めたのと関係あるの?」  ―――やっぱり、十和子さんはその件でここに来たのだ。 「……ね、おばあちゃんちっとも話が見えないんだけど、このお嬢さんはどなた?」 「高橋さんの大学のサークルの先輩で、ゆき……イニシャルYの元カノです……」 「あらまあ。……彼女なんていたのねぇ」 「お忙しいところに突然おじゃまして申し訳ありません。連城十和子と申します」  十和子さんは、言葉がクリアに響く発声で名乗り、丁寧に頭を下げた。その礼儀正しさが気に入ったようで、祖母はにっこりとした。 「別に忙しくもなかったから気にしないでくださいな。ええと、じゃあ高橋くんとチヨちゃん、私たちはあっちに行ってましょ。香乃ちゃん、お客さんが来たら声かけてね」  祖母はチヨちゃんと高橋さんをうながし、母屋へ続く木戸の向こうに姿を消す。一度、心配そうにふり向いたチヨちゃんが、がんば、というように手をきゅっと握った。わたしは苦笑しながら、ありがとう、という意味で手をふった。  十和子さんと二人きりになると、やや気づまりな沈黙がおりた。何か話さなければと思うのだが、何を言ったらいいのかわからない。十和子さんも少し緊張した面もちで右側の髪を耳にかけた。以前会った時には知的なボブカットだった髪が、今は鎖骨をこえる長さにのびている。そのせいか、十和子さんは以前よりしっとりと大人っぽく見えた。 「そういえば、ごめん、挨拶もしないで。元気だった?」 「はい、あの……十和子さんは」 「私も、うん、そろそろ卒論とか就活とか考えないといけないからバタバタしてて……」  言葉尻をすぼませた十和子さんは、ため息をついた。 「ごめん。私、こういう時の話の持っていき方がうまくないの。用件だけ言うね。最近、岸田と何かあった?」  わたしは、唇に小さな隙間を作ったきり、何も言えなかった。 「岸田が今、長期のインターンシップに参加してることは知ってる?」 「……はい」 「私も同じプログラムに参加してるの。先月から同じ企業で働いてる。あ、でも働いてるセクションが違うから会うことはほとんどない。それにそのプログラムって一週間のうちどこで出勤するかも自由に計画できて、私が出るのは月水金だから本当に岸田とは月曜日にちらっと顔合わせる程度――って、何だろ言い訳っぽいな」  小さく顔をしかめた十和子さんは、しばらく話を整理するように目をふせていた。 「……先週、私ちょっと風邪ひいちゃって、金曜日に出勤するはずだった予定を土曜日に変更したの。そしたらお昼休みに食堂で、岸田とばったり会って。あいつ、土日と祝日はここでバイトしてるはずでしょ。だから私、ここで何やってんの? ってびっくりして、そうしたら、ここでのバイト辞めたって聞いて――」  そして十和子さんは、わたしを見つめた。わたしの言葉を待つように。わたしは、持ってもいない超能力を期待されているような息苦しさを感じた。 「……何かあったとかじゃ、ないんです。今度のインターンシップとアルバイト、掛け持ちするのは大変だからって、雪弥さんが……」 「それ、あなただって信じてないよね。確かにあいつはいつも講義つめこみすぎで忙しいけど、全然調整がつかないってことはないはずだし、第一、付き合ってた私の誕生日よりもここのバイト優先してたやつだよ? そんな理由、口実としか思えない」  わたしは体を硬くしていた。十和子さんもすぐに後悔の香りをさせて「ごめん、言い方きつかった」と視線を落とした。 「私は完全に外野だし、外野が口出すことじゃないのはわかってる。ただ……今の岸田、ちょっとあれは、よくないと思う。前から閉じてるところはあったけど、今はそれが悪化してるっていうか、何となく、すさんでる。ワーカホリックみたいに働きっぱなしで、顔色もよくないし……」  いったん言葉を切った十和子さんは、覚えてる? と小さな声で言った。 「私が、あなたと岸田のこと疑って、それで岸田が言ったこと。私と別れたらあなたと付き合うのかって訊いたら、あいつ『できない』って言ったの。『自分なんかじゃ、ちゃんと大事にできないから、できない』って。それ、ひっくり返したら、あいつの中であなたはそれだけ大きいってことでしょ。私はもう岸田のこと、そういうふうには見てないけど、だからって嫌いになったわけでも敵になったわけでもないから、あんなふうに調子崩してたら気になる。もしあいつと何かあったんなら、一度会って話したほうが……」 「――わからないんです」  十和子さんが、問い返すように眉根をよせる。けれどわたしは答えられない。  本当に、わたしには、何もわからないのだ。 2  あの十月最後の土曜日。  鎌倉警察署を出たあと、わたしは両親に付き添われて病院へ行き、顔の打撲を診てもらった。夕方になって家に着いた時には、連絡を受けた祖母も帰宅していて、ひどく動揺した香りをさせながらわたしを抱きしめた。  雪弥さんには何度も電話をかけた。けれどコール音はやがて留守番電話のメッセージに切り替わるばかりで、折り返しもない。胸が内側から破けそうなくらい不安がつのり、もう夜も遅い時間帯に入った頃だった。不意にわたしの水色のスマホが振動した。飛びつくように手にとると、液晶画面に表示された電話の主の名前は、雪弥さんではなく、雪弥さんの叔父の和馬さんだった。 『咲楽香乃か? けがの具合はどうだ』  和馬さんはまずそう訊ね、わたしは何ともない、大丈夫ですと答えた。次の質問がしたいあまりに、きっと早口になっていたと思う。 「あの、雪弥さんは一緒ですか? どうしてますか? さっきから電話しても出なくて、もしかして何かあったんじゃないかって……」 『きみは以前、雪弥は土日と祝日にそちらの店でアルバイトをしていると言っていたが、明日も働く予定だったのか?』  和馬さんの声は扇動者みたいなパワーがあって、さえぎられると口をつぐまざるを得ない。そうです、とわたしが返事をすると『すまないが』と和馬さんは淡々と続けた。 『いま雪弥は体調を崩していて、おそらく明日はそちらへ行くことができない。きみからおばあさまにそう伝えてもらえるか』 「体調って……どうしたんですか? 雪弥さん、大丈夫なんですかっ?」 『心配しなくていい、そんな深刻なものじゃない。自家中毒のようなもので、子供の頃はよくやっていたんだ。二、三日安静にすれば回復する。ただ、今あいつをひとりで置いておくのは心もとないので、しばらくは私の自宅で様子を見る。きみは心配しないでくれ』  和馬さんの口調からは、わたしへのいたわりと、わたしを深入りさせまいとする拒絶の両方を感じた。わたしがもっと詳しいことを訊ねる前に、通話は切れてしまった。  その夜は、ほとんど眠ることができなかった。  翌日の日曜日、今度は和馬さんからメールが届いた。相手の男性とは話がついたので、雪弥さんについては何も心配はいらないということ。わたしは気にせずに早くけがを治すようにということ。直接話をしたくて電話をかけたけれど、応答はなく、お礼と雪弥さんの様子を訊ねるメールを送ったが、それにも返事はなかった。  雪弥さんから電話があったのは、それからさらに三日後の、水曜日の夜だった。  何も手につかなくてぼんやりとベッドに座っていたら、いきなりスマホの電子音が鳴り響いて心臓がとまるかと思った。液晶画面に表示された名前を見た時、鼓動が苦しいくらい加速して、もしもし、と応答する声が少しだけかすれた。 『――香乃さんですか?』  胸がふるえるという言葉の意味を、あの時、自分の体で痛いほど感じた。 「あの、具合が悪いって和馬さんが……もう治ったんですか? よくなったんですか?」 『大丈夫です。……香乃さんは、けがはどうですか』  平気です、たいしたことないです、もう全然痛くないし、痕も残らなかったし、わたし体は丈夫だから。わたしは自分でも明るすぎると感じる声で、早口に大丈夫だと言い続けた。何なのだろう。まじないのように前向きな言葉を並べ続けなければ、何か悪いことが起きるという気がして仕方なかった。本当は必死ですごく怖かった。  わたしがしゃべる間、雪弥さんは言葉をはさまなかった。本当に相づちのひとつさえ。電話の向こうに雪弥さんがちゃんといるのか不安になって、雪弥さん? と小さな声で呼びかけると、息を吸う気配がした。 『――すみません』  何が、と訊けばよかったのだろう。けれど、わたしはとっさに言葉が出なかった。 『体のこと、くれぐれも大事にしてください』  雪弥さんはあまりにも静かな声で言い、そして、電話は切れた。  翌週、十一月の最初の土日は、祖父銀二の三回忌の法要のために店は休みだった。それはあらかじめ雪弥さんにも伝えていたことだったので、雪弥さんが店に現れないのは当然のことだったし、わたしや祖母から連絡することはなかった。  そして、週明けの月曜日。  学校を終えて帰宅した夕方、わたしは店にいるはずの祖母にただいまと言うために白木の引き戸を開け、すぐに何かあったことを悟った。勘定台の前に並ぶ椅子のひとつに座った祖母は、物思いに沈む横顔をして、困惑とさびしさの入り混じった香りを漂わせていた。わたしに気づくと、祖母はサッと何かを隠すように香りをこわばらせたが、すぐに無駄なことをしたというように微苦笑を浮かべた。 「おかえりなさい。香乃ちゃん、ちょっと今いい?」  トントンと祖母が叩くとなりの椅子に、わたしは頷いて腰かけた。店内は暖房がきいているのでコートを着ていると暑いくらいで、わたしが水色のマフラーをとるのを待ってから、祖母はやわらかく話しはじめた。 「今日ね、お店を開ける前に、雪弥くんがここに来たの。あ、体の調子はもう大丈夫みたい。顔色はいいとは言え