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作者:喜多みどり
类型:乙女向 书籍样本 日文
出版:2016-12-02(角川书店)
价格:¥514 原版
文库:角川Beans文库
丛书:光炎のウィザード(2)
代购:lumagic.taobao.com
光炎のウィザード 追憶は五里霧中 光炎のウィザード 追憶は五里霧中 喜多みどり 角川ビーンズ文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載したりすることを禁止します。また、 本作品の内容は、底本発行時の取材・執筆内容に基づきます。  ──本当のことを言おう。 「リティーヤ先生」  甘えたような声がそう呼んだ。  本を膝に載せてうとうとしていたリティーヤは、目を擦って顔を上げ、机を挟んで向かいに座る少年を見やった。 「あ、もう終わった?」 「んーん」 「じゃあ何よ」 「名前呼んで?」 「えーと、ドアノブ君」 「……何それ」  リティーヤは小首を傾げて答えた。 「真鍮のドアノブってあるでしょ。あんた、あれみたいな目してるから」  がらんとした空き教室の一隅に、彼らはいた。  傾いて西の空に赤く滲んだ太陽が、死に際の女優のように美しく凄絶な光を投げかける夕刻、彼らは二人だけで机を挟んで向かいあっていた。  ここに至るには色々と込み入った事情があって──たとえばリティーヤの指導教官が不在で、そのためリティーヤの面倒を研究室の先輩が見ていて、その先輩魔術師が基礎課程の授業を臨時で見ることになって、リティーヤが指テイー導チング助・アシ手スタントとしてそれについていって云々という──一言では言えないのだが、とにかく彼らは一つの机を囲んで、少年はリティーヤを先生と呼んでいた。  自分が先生なんて呼ばれる日が来るとは、しかもこんなに早くそういう事態がやって来るとは思っていなかったリティーヤは、実のところそう呼ばれるたびにむずがゆいような気分になっていた。背筋の伸びるような誇らしさと、少しの緊張と、面倒くささと。それらすべてのごたまぜになった淡い感情だ。  自分の若い指導教官も、こんな気分を味わっているのだろうか、とちらりと思う。 「変なあだ名なんかつけないでよ」  少年は頰杖をついて、リティーヤの顔を覗き込むように身を乗り出してきた。 「あ、それとも僕の名前忘れちゃった?」  リティーヤの方も、少年と同じように頰杖をついて幾らか顔を近づけた。 「忘れるわけないでしょ。あんたのせいで講義棟何往復……」 「それはいっつも聞いてるって。ねえ、本当に僕のこと覚えてる?」  少年は、自分の金髪を指先に巻き付け弄びながら訊いてきた。疑り深そうな真鍮色の──リティーヤがドアノブと形容した目が、彼女を見つめる。 「覚えてるったら。いーから書き取りやってよ。終わらないとあたしも帰れないんだから」 「帰れなくていいよ。リティーヤ先生とずっと一緒にいられる」 「……あたしは別にあんたといつまでも一緒にいたいわけじゃないの!」 「一緒にいたくない?」 「いや、だから……」  彼女は俯き、視線を逸らしてしばらく考えたが、最終的には渋々ながら言ってやった。 「……あたしだってやることあるの、だからさっさと書き取り終わらせてよ、バゼル」  少年は──バゼルは、それを聞いて、満ち足りた獣のように目を細めた。  ──本当のことを言おう。  彼と過ごす時間は確かに心地よかったのだ。  昔から知っている相手と過ごすような気安い空気が、そこにはあったから。 「僕の名前は、先生に呼んでもらうためにあるんだよ」  リティーヤの気持ちを見透かすように、少年はそう言って笑った。 1  リティーヤは病室の扉を開けたところで立ち竦んだ。  そこは《学アカ園デミー》にある大きな病棟の一室で、味気ないベッドとサイドテーブルが一つ入ればいっぱいになる、狭い個室だった。窓は開け放たれ、ただ白いだけのカーテンが場違いに爽やかな風にそよぎ、同じく白いカバーで覆われた布団は人を予想させる形に盛り上がっている。  膨らみはぴくりとも動かない。 「……ヴォルドさん?」  リティーヤは半笑いを浮かべて一歩ベッドに近付いた。  人の形に膨らんではいるものの、頭は出ていない。それは完全に布団に覆い隠されている。この下にヴォルドが──つまり六十がらみのあの屈強な男性がいるのか、リティーヤは突然疑わしく思えてきた。この大きさでは、ヴォルドの大きな身体が下にあるとは思えない。だいたい、彼だとしても、こんなふうに布団を完全に頭から被って寝ている理由がわからない。普通ならば、寝返りを打ったり、呼吸で掛布が動いたりするはずだ。  そう、これではまるで、死──。  リティーヤは、わき上がってきた氷の塊のような予感を、無理矢理意識の底へ沈めた。 「ヴォルドさん……?」  リティーヤは、凍り付いて引きつった笑い顔でもう一度だけ呼びかけて、ベッドの上の膨らみに手を置いた。掌に感じるのは、リンネルのカバーのさらりとした手触りと、その下の布団の、羽毛の詰まった弾力。  さらに下にあるのは──。 「!」  リティーヤの目が、カッと見開かれる。 「ヴォルドさん!」  彼女は掛布を一気に剝いだ。  現れたのは、ただの丸めた毛布だ。  しかもご丁寧に包帯で縛って人間っぽい形に整えられている。  絶句するリティーヤの隣に、かつかつと靴音を響かせて、指導教官のヤムセが並んだ。  彼は毛布とシーツの間に手を入れ、きわめて冷静に呟いた。 「まだ温かい。遠くには行ってないな」  そうしてさっさと部屋を出て行った。  ……取り残されたリティーヤも、すぐに我に返り、廊下へ飛び出した。 「先生! ヴォルドさん、いったいどう──」 「……配膳台」  師から唐突に返ってきた言葉の意味を、リティーヤは咄嗟に理解できなかった。 「へ? あっ」  忠告の意味を知ったのは、廊下に出ていた配膳台にぶつかった時だ。配膳台の上に山と積まれていた食器が崩れ、床に落ちて盛大に音を立てて割れた。飛び散った破片を避けて慌てて退くと、今度は廊下の隅に寄せられていた空の瓶と用途のわからない器具に蹴躓いた。再びガラスの割れる音が響く。  僅かな間に、リティーヤの周囲にはがらくたの山ができていた。 「や、やっちゃった……」  しかし、今の物音が聞こえただろうに、ヤムセは待つ様子もなく先へ行ってしまう。 「あれ? 先生ー? えーと……」  リティーヤは首を捻りながらも師の後を追った。  病棟の廊下は通称物置廊下と呼ばれるほど様々なもので溢れているため、それらを避けたり跳び越えたり蹴飛ばしたりした挙げ句、やっと怒鳴らずとも声の届くところに辿り着き、彼女はヤムセのコートのベルトを引っ張った。 「先生、哀しいお知らせですけどあたし配膳台ひっくり返しちゃ……」 「言うな」 「は?」  ヤムセは真剣な眼差しを前方に据えたまま、押し殺した声で言った。 「何があったかわかったら、片づけなくてはいけなくなるだろうが」 「……いや、片づけないといけないもんなんじゃないですか?」 「私は音を聞いただけだ。何も見ていない」 「…………つまり?」 「……つまりだな、リティーヤ」  ヤムセは察しの悪い弟子の手をベルトから払いのけて言った。 「この廊下を見て、おまえはいったいどこを片づけるつもりだ?」  物置廊下の物置っぷりを見回し、リティーヤはなるほどと納得した。  確かに、この混乱では片づけ始めるときりがなさそうだ。 「こうして物置廊下は物置っぷりを深めていくんですねー」 「文句でもあるのか」 「いや、片づけなくていいなら、ないです」  リティーヤは背後も過去も振り返らないようにして、懲りずに再びヤムセのベルトを引っ張った。 「で、ヴォルドさん、どこ行ったんですか?」 「酒か煙草か──その辺だろう」  そういう答えとともに、ベルトを摑むリティーヤの手は、虫のようにたたき落とされる。 「あいた」 「摑むな」 「じゃあ少しはゆっくり歩いてくださいよ……って、えーと、ヴォルドさん大けがだったんじゃないんですか?」 「医療班の治癒魔術がうまく効いたということだな」  自分の師匠──ヴォルドはヤムセの師匠だったそうだ──が無事とわかったというのに、まったく嬉しくなさそうにヤムセは言った。照れ隠しで喜びを見せないとかではなくて本当に嬉しくなさそうなのだ。舌打ちし、ぶつぶつ言う。 「治しすぎだ。話すので精一杯くらいがちょうど良かったのに」 「今なんか言いました先生?」 「人生の貴重な数年を無惨に踏みにじられた弟子の正直な述懐だ。とにかく、近くの購買かカフェか食堂にいるはずだ。捜すぞ」 「はあ……」  リティーヤは小首を傾げ、長い金髪に覆われた頭をぽりぽり搔いた。 「……ん?」  その時、薬の臭いに混じって漂う芳香が、鼻の奥を刺激した。  見れば、中庭に面した窓が開いていた。甘いがきつくはない匂いの正体は、幾つも固まって咲く紫の小さな花で、雪に半年を支配される大陸に夏の訪れを告げる象徴として知られていた。  短くも美しい夏が、大陸東部辺境《学園》本部にも訪れているのだ。 「……リティーヤ!」 「あ」  花に見入っていたリティーヤが、声に呼ばれて気が付いた時には、ヤムセは何歩も先に行っていた。リティーヤは慌てて、夏の日々の中でも変わらない指導教官の重たそうなコートの後を追い──。  廊下に放置されていた器具を蹴り飛ばして、破壊した。  大陸最大の魔術師組織、《学園》。  リティーヤはその《学園》の専門課程に籍を置く見習い魔術師であり、正魔術師であるヤムセはリティーヤの指導教官である。彼らは調査旅行に出ていた南部の湿地帯から電報によって緊急の呼び戻しを受け、つい数時間前《学園》への帰還を果たしたところだった。無論緊急の呼び戻しである以上、事態は切迫したものだった。  ユローナが逃亡したのだ。  ユローナは希代の天才魔術師と謳われながらも《学園》を出奔し、《学園》史上最高額とも言われる賞金をかけられていた女魔術師だ。数ヶ月前ヤムセら《学園》の魔術師によって捕縛されてからは、魔術を封じられ、《学園》内に拘禁されていた。  ところがつい一週間ほど前、ユローナはその厳重なる拘束を破り、ちょうど面会に来ていたヴォルドを一方的になぶり、けがをさせて逃亡したのだそうだ。 「ヴォルドさんも病室抜け出せるほど元気なんだから、心配ないんだろうけど」  リティーヤは長身の老魔術師の姿を求め、《学園》の敷地内に幾つもあるカフェの一つを覗いた。  図書館と研究棟の間に肩身が狭そうに建つカフェは、通りに面して大きな窓を有し、狭い割に閉塞感は薄かった。差し込む陽光は壁の煉瓦が溶け出したかのようにほのかに色づき、なんとなく澱んでいるような空気にはコーヒーと煙草の臭いが入り交じる。まばらな客は、場所柄魔術師か魔術師見習いだ。 「すいません、人捜してるんですけどもー」  カウンター奥の店主にそう声をかけて、店の中に入る。背後でがらんとドアベルが鳴り、扉が閉まった。 「ん、来てないね」  ヴォルドの容貌を聞いた店主は、そう言って首を振った。リティーヤは礼を言い、次に行く店の場所を考えながら、店内にさっと視線を向けた。店も狭い上に客も少ないから、入った時にざっと見ただけでヴォルドがいないのはわかっていたが。 「……あ」  だが、店の奥には知り合いがいた。  と言ってもヴォルドではない。  リティーヤの目に留まったのは、こちらに背を向けるようにして、一人で隅のテーブルに座っている少女だ。着ている制服は、リティーヤと同じく専門課程の研究生であることを示している。背が高くがっしりした身体つきのヴォルドとはまったく違う系統の人間だったので、最初に眺めた時には存在が意識に引っかからなかったのだろう。 「ミカ」  リティーヤは少女の背後に近付き、声をかけた。少女はパッと顔を上げ、リティーヤの方を振り仰ぐ。眼鏡の奥の瞳に自分の姿が映るのを見て、リティーヤはにっこりと笑った。 「久しぶりー。元気だった?」 「リティーヤ……」  ミカは驚いたようすで、まだ目をぱちくりさせている。長い睫毛がそのたびにぱちぱち鳴りそうなほどだ。少し癖のある焦ダーげクブ茶ラウンの髪を二つに分けて緩く結い、いつものように肩の上に載せている。  ミカは、リティーヤとは違ってふっくらとした女性らしい身体、おっとりした優しそうな顔立ち、それにきつい性格と学年ぶっちぎりトップの成績の持ち主である。基礎課程も首席で修了した。掛け値無しの美少女なので男子学生や下級生の憧れの的だ──まあ、近寄りがたい雰囲気を発しているので、そう簡単に声をかけられることはないのだが。  そしてリティーヤの友人でもある。 「あれ、ちょっと瘦せた? ちゃんと食べてる? こんなところで何してんの」  リティーヤは勝手に向かいの椅子を引いて座った。ミカは我に返ったようすで、テーブルの上に広げてあった本と書類を手際よくまとめた。リティーヤの前に置いておいたら汚されると思っているのだろう。  ミカは書類を整えながら答えた。 「別に。コーヒー吞んでただけよ」 「えっ、でもここのコーヒーまずくない?」 「……聞こえるわよ」  狭い店内はカウンターへの距離も近い、ということに気付いたリティーヤがぎこちなく見やれば、カウンターの奥、無言でコーヒーを落とす店主の額には青筋が浮いていた。 「あ、あはは。えーと、あ、考古学研究室ってこの辺だったっけ」 「そーよ。あんたこそまずいコーヒー吞む以外の何の目的でカフェなんか来てるのよ」  眼鏡の下からミカの大きな目が睨みつけてきた。リティーヤはへらっと笑って答えた。 「人捜し手伝わされちゃってるんだ。うちの指導教官人使い荒いから」 「あんたみたいなのでも使わなきゃいけないなんてほんとに人手不足なのねえ、同情するわ」 「うん、してあげて」  ミカはへらへら笑っている友人の指導教官に心の底から同情し、頭を抱えた。 「してあげて、じゃないでしょ……だいたいこんなところでのんびり油売ってていいわけ?」 「あー、良くはない、かな?」  遠くの記念堂から、時刻を報せる鐘の音が聞こえてくる。高低を組み合わせた音は三時半を告げているから、リティーヤはかれこれ一時間もヴォルドを捜してうろついていることになる。ヴォルドにかけられた治癒の魔術がどれほどの成功を収めたのかリティーヤはわからないが、無理をすれば傷口が開くようなこともあるかもしれない。  それは、リティーヤとしても避けたかった。  おとなしく立ち上がったリティーヤを見て、ミカは目を丸くした。 「え? あんた行くの?」 「うん、やっぱちゃんと捜すよ」 「ちゃんと? あんたが?」 「ミカ、何そんなに驚いてんの?」 「何って、だってあんた基礎課程の頃は先生から用事言いつけられてもすーぐ投げ出してたじゃない」 「やだなあ、それはそれ、これはこれ、だよ。あたしだってやる時はやるんだよ?」 「リティーヤ、何かあったの?」 「なんかないとあたしがやる気になったらいけないの?」  長い付き合いの友人は、きっぱりと言った。 「当たり前でしょ、あんたなんか私がどれだけ苦労して課題やらせたと思ってるのよ」  …………。  思い当たるところのありすぎるリティーヤは、とりあえず視線を明後日の方向に逸らした。  しかし、友人の問いに答える言葉は出てこなかった。  確かに何かはあった。  リティーヤはミカにしばらく会わない間に〈昼〉魔術が使えるようになってしまったし、そのせいで凶悪な女魔術師に狙われたりもしたし、今回の調査旅行だって舞踏会だの武闘会だのに参加して色々ピンチなことになってしまったし──その中でリティーヤを助けてくれた相手は、実は凶悪魔術師ユローナの協力者だったし。  そういった事柄が、今の自分に影響している可能性はある。それは否定できない。どんな可能性だって、否定はできないものだ。だから無意味だとわかりながらも、気が付くとリティーヤは繰り返し考えている。もしも、あの時あたしがもっとうまくやっていたら。  べし。 「はわっ!?」  リティーヤは突然額を分厚い本の角で殴られ、またすとんと椅子に座り込んだ。  椅子の上に縮こまるようにして痛みにもだえるリティーヤに、冷静かつ冷酷な言葉が浴びせられる。 「何深刻そうな顔してるのよ」  リティーヤが潤む目で見れば、ミカはリティーヤを殴った本を脇に置き、平然とコーヒーを啜っていた。これで下級生の人気アンケートでは常にトップなのだから、リティーヤにはどうにも解せない。同級生からの票が少ないのは、彼らが日常的にミカと接しているからである。 「し、深刻だもん」  リティーヤは三歳児のような口調で言い返した。さっさと五歳児くらいにはなってくれとでも言いたげに、ミカは嘆息する。 「何があったのよ」 「何って」 「話せないことならいいけど」 「えっと」  説明しようとした途端、頭の中が血と脂に汚れたシーツでいっぱいになった。命の恩人が血にたっぷりと染まったシーツの前に立ってテーブルクロスの白いところで汚れた剣を拭いていて、その足下の見えないところでは死体が一つ転がっていて、俺ってあっちユローナ側の人間なんだ、君の命を助けたのも偶然なんかじゃなかったんだよと語った、その情景とヤムセの激昂が脳裏に蘇り、唐突に吐き気を覚える。 「話せないならいーって言ったでしょ」  ミカは少しだけ苛立たしげに言った。 「ん、と。……ありがと」  リティーヤは吐き気と一緒に唾を吞み込み、視線を落とした。  意識から赤いシーツの記憶を遠ざけようと、目の前のテーブルの上のものを順繰りに眺めていく。コーヒーカップ、角砂糖の入った壺、ミカの白い手、本……。  赤い印が押された本でその目が留まる。 「……ミカ、それ禁帯出だよね?」  リティーヤが指さしたのは、ミカが机の上に重ねて置いた数冊の本の、一番上の一冊だ。端の方に、図書館からの帯出を禁じる赤い印が押されている。 「ああ、ちょっとね」 「ちょっとって。先生たちに見つかったらヤバイよ?」 「実験前に確認しておきたくて。大丈夫、これくらい」 「実験? 考古学研究室って実験するんだっけ?」 「四時から〈夢〉魔術の実験があるの。心理学研究室と合同で、遺物から情報を引き出す──」  その時。 「リティーヤ」  ミカのものではない声が、戸口から聞こえてきた。  見れば、カフェの入り口にヤムセが立っていた。通りに面した窓から弟子の姿を認めたのだろう彼は、扉に手をかけたまま言った。 「見つかった。行くぞ」 「あ……」  ヤムセはリティーヤを放って、さっさと外へ出てしまう。ドアに取り付けられたベルがからからと乾いた音を立てる。リティーヤは弟子を待ちもしない師のようすに少々ムッとしたが、文句を言うべく彼の背を追う前に、ミカにごめんねと頭を下げた。 「あたし行くよ。あのさ、久しぶりに今日は一緒にご飯食べよう」 「いいわよ。じゃあ、中央食堂に七時、くらいでいい?」 「うん、七時に!」  リティーヤはミカと別れ、店を出てからも窓越しに手を振った。  ミカは身体を捻って、椅子の上で手を振ってくれた。  そのいつもはふっくらとした容姿がやはり今日は少し細く見えて、ああ、実験で忙しいのかなあ、とリティーヤは師の後を追いながら頭の隅で考えた。 2  ヤムセの背中を追ってリティーヤが辿り着いたのは、件の物置病棟だった。  つい一時間ほど前にも入った同じ部屋にもう一度入ると、一時間前とは違って狭いベッドの上いっぱいに、老いにさしかかった男性が長々と寝そべっていた。 「おいヤムセ、もうちっとたのしそーな記事書くやつ持って来いよ」  男性──ヴォルドはヤムセが入ってくるなり、挨拶もせず、手にした新聞から目を上げもせずそう言い、つまらなさそうに脇腹をぼりぼり搔いた。けが人らしい寝間着ではなく、ズボンにシャツ、ベストを着込んで、ネッカチーフまで巻いている。ブーツを脱いでいないので、ベッドのシーツに泥がついているのだが気にする様子も見えない。 「先生、勝手にふらふらしないでください。今日私が伺うと、連絡があったはずです」 「ベッドに縛り付けられて一日中こんなん読んでたらどーかなっちまうぜ。師匠は労れって心と身体にたたき込んでやったの忘れたのか?」 「……お忘れかもしれませんが先生は大けがを」 「も一回最初っから修業し直したいならそう言えよ、いつでも吐いて泣くまでいじくり倒してやっからなー」 「…………」  大きなあくびを一つして、ヴォルドは新聞を自分の顔の上に載せた。頭の後ろで組んだ手を枕代わりに、昼寝でもするつもりらしい。  ヤムセは眉間の皺を一本増やして奥歯で苛立ちを嚙み潰し、部屋の隅で椅子に座るもう一人の男へ視線を向けた。 「バド、お疲れ様です」 「ああ、まったく疲れたよ」  答えて嘆息したのは、三十代と思しき口ひげの男性だ。 「どこにいたんです?」  リティーヤが訊くと、バドは面倒くさそうに顔を上げた。 「裏口で治療班の女性をくどいていたようだね」 「……あ、なるほど」  酒、煙草の他に女性という必需品もあったのだ。リティーヤは感心して記憶の隅に留めた。 「リティーヤ、先に戻っていろ。バド、リティーヤを頼みます」  ヤムセがそう言うと、バドはげっそりとした顔で立ち上がり、ヴォルドに声をかけた。 「では失礼しますよ、ボス」  リティーヤもヴォルドに一言挨拶してから出ようとしていたが、そこではたと口を閉じる。  ……ボス? 「リティーヤ」 「え。あ、はいはい。じゃあヴォルドさん、後でまたお見舞いに来ますから。それまでおねーさんたちにちょっかいかけたりしないでくださいね」  ヴォルドは顔の上の新聞をひょいと持ち上げた。眠たげだった目がリティーヤの姿を映した途端面白いものでも見付けたように不敵に輝き、ニタリと笑った口から、粗野な──というか卑猥な言葉が出てくる。 「なんだ? 見舞いがてらてめえが俺を慰めてくれるってわけか、おい?」  その笑みも口調も以前会った時と変わらない。リティーヤは本気で感心して言った。 「憎まれっ子世に憚るってほんとですねえ。きっとヴォルドさんなら百十年記念講堂の鐘楼のてっぺんから突き落とされても無事ですよ。心配して損したんで今度なんかください」 「てめえの弟子は相変わらず教育がなってねえな、ヤムセ。今度慰謝料請求するぞ」 「リティーヤと一緒になって減らず口だけ叩くのはやめてください。始めますよ」  ヤムセが心底鬱陶しそうに言い、聴取のためのノートを開いた。  リティーヤらの所属する魔力環境研究室は、第四研究棟の三階奥に位置する。病棟は医療系研究棟に隣接して《学園》の中央部にあり、西部の隅に虐げられている第四研究棟までは歩くと四十分くらいかかる。 《学園》内は広くて建物が点在している割に人の動きが多いので──魔術師だからといって、研究棟に籠もって研究だけしていればいいというわけではないのだ──乗り合い馬車なども走っているのだが、時間帯によってはひどく混んでいる。それを嫌ったバドはメインストリートに出るなり北上する荷馬車を見付けて乗せてもらうことにした。第四研究棟まで研究資料を運ぶ車である。  リティーヤは馬車が揺れるたびにちゃぷちゃぷ鳴る水槽の中身やら厳重に魔術封じをされた本のタイトルやらが気になって、覗こうと立ち上がりかけてはバドにしかられた。 「君は落ち着きだとか思慮だとかいうものを母親の腹の中に置き忘れてきたのかね?」  リティーヤも、少しムッとして言い返す。 「覗くくらいいいじゃないですか。それに最近はあたしもちょっとおとなしくしてるつもりです、そんなこと言われるいわれはありません」  狭い空きスペースに押し込まれて、バドとの距離はごく近く、にらみ合えば真っ正面から視線