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作者:谷瑞恵,詩縞つぐこ
类型:乙女向 书籍样本 日文
出版:2016-09-21(集英社)
价格:¥572 原版
文库:Cobalt文库
丛书:異人館画廊(4)
代购:lumagic.taobao.com
異人館画廊 当世風婚活のすすめ (集英社オレンジ文庫) 集英社eオレンジ文庫 異人館画廊 当世風婚活のすすめ 谷 瑞恵 この本は縦書きでレイアウトされています。 本書は書き下ろしです。 CONTENTS 1 旧家の秘密 2 僧院あるいは婚活パーティ 3 風刺と図像 4 汝の欲するところをなせ 5 当世風ヘルファイアー・クラブ 6 運命の図像 【登場人物紹介】 此花千景 英国で図像学を学び、祖父の死を機に日本に帰国した十八歳の少女。 両親に捨てられたことがトラウマとなっている。 西之宮透磨 西之宮画廊の若き経営者で、千景の幼馴染み。千景の祖父に「生涯千景のそばにいてやってほしい」と頼まれていた。 此花鈴子 千景の祖母。亡き夫・統治郎の絵を展示した異人館画廊を営む。 江東瑠衣 異人館画廊のアルバイトで小劇団の女優。年齢不詳。千景の良き話し相手。 槌島 彰 巷で話題の占い師だが、霊感はない。派手好き。 カゲロウ 美術品のバイヤーで透磨たちの仲間だが、オンラインのやりとりのみでその正体は謎に包まれている。 阿刀京一 千景のまたいとこの警察官。千景を慕っている。同級生の透磨とは犬猿の仲。 イラスト/詩縞つぐこ  月の明るい夜、フラワーロードに突然クラッカーの音が鳴り響いた。夏休みが終わる直前とあって、遊びに来ていた観光客はふだんよりも多くまだ街を歩いていたし、駅前から思い思いに散らばっていく人々も少なくない。そんな中、人の波は一瞬凍り付いたように動きを止め、音のほうへ顔を向けた。このご時世、市民を巻き込む凶悪事件もテロもあり得ると思えば、透磨はとっさに、そばにいた千景を背後に押しやる。  しかしほとんどの通行人は、危険を感じるよりも好奇心で辺りを見回すばかりだ。 「透磨、何、あの人たち」  千景が背後から指差したのは、喪服を着た一団だった。さっきまで人込みに紛れてバラバラに歩いていたのか、まったく目立っていなかった喪服の男女が、横断歩道を囲むように集まっている。異様な感じがするのは、男も女も黒いベールをかぶっていることだ。  葬式帰りにしては奇妙な団体に視線を奪われていると、またクラッカーが鳴らされた。宙を舞う紙テープに、事件ではなくイタズラだろうと透磨は緊張を解くが、もしかしたらそのとき、素早くその場を離れるべきだったかもしれない。見るということは、それだけで自分とその風景との間に何らかの関係性ができるということだ。瞳に映った光景は、善かれ悪しかれ心に影響を及ぼすのだから。  千景は、好奇心に駆られたように喪服の団体を見守っていた。いや、目が離せなくなったというべきか。通りすがりの見物人がざわめく中、黒い人影の間から、横断歩道に突如現れたのは、はだかに近い男女だったのだ。  男も女も白い布で目隠しをし、白く透けたベールをかぶっているが、体にまとっているのもベールと同じシースルーの布のみだ。女は長い髪を肩に垂らし、男の腕に手をそえて、白い横断歩道をヴァージンロードのごとくおごそかに歩く。喪服の集団がそれを見守る。何人かが道に花びらを撒く。街灯とビルの明かり、車のヘッドライトに照らし出されるのは、黄色い花びらだ。そうして、半裸の花嫁が手にした一輪の薔薇だけが、真紅に輝いていた。  あきらかに公序良俗に違反している男女を、千景は注視している。その視界をさえぎるべきかどうか、透磨は少し迷ったが、結局そうしなかった。  いつのまにか透磨の背後から歩道の際まで進み出た彼女は、細部まで神経を注いで分析する学者の目になって、一枚の絵を見るようにその情景を見ていたからだ。  長いまつげに鼻筋の通った横顔、千景は大人びた雰囲気だとはいえ、まだ十八歳だ、未成熟でアンバランスな内面をかかえている。ふだんは危なっかしくもある少女だが、スキップで学位を取得した美術史の研究者だということを目の当たりにする瞬間、透磨は複雑な心境になる。  年下の幼なじみ、同じように絵画に携わる同士、それとも保護者のようなもの、千景との関係を言い表す言葉はどれもしっくりこない。確かなのは、透磨にとって目を離せない存在だということだ。  とても身近なのに、遠くにも感じる存在。  喪服の集団と顔のない男女、夜空を舞い、横断歩道に落ちた花びらは裸足の足に踏みしだかれる。透磨は、千景自身がその絵の中に存在しているかのように感じ、不意にあせりをおぼえた。思わず肩に手を触れると、千景は不思議そうに振り返る。 「はだかの男がそんなにめずらしいですか?」  街灯の光でもわかるくらい頰を赤く染め、眉をつり上げて彼女は透磨をにらみつける。 「そ、そんなの見てたわけじゃないわ!」 「身を乗り出してるのはあなたくらいです。通行人はむしろ退いてますよ」  つい、意地悪なことを言いたくなる。うろたえて憤るとき彼女は、その瞳に透磨を映すからだ。絵の中なんて別世界ではなく、こちら側に、現実にここにいて透磨を見ていると確信できる。 「誰も、あれの意味をわかってないのね」  千景はむっつりとしてつぶやいた。  横断歩道の信号が変わると同時に、男女も喪服の集団も散り散りになって、夜の街に紛れ込んでしまっていた。 「意味、ですか?」 「あれは、錬金術の寓意よ」 「とすると、〝化学の結婚〟をイメージしたものだと」 「ええそう。異なる物質の融合によって金を生み出そうとする錬金術が、〝結婚〟のイメージで表現されるのは定番だわ」  錬金術は、相反するものがひとつになることで、完全な存在になるという考え方だ。金は金属の中で最も高貴な、完全なものだと考えられていたのと同時に、人の魂も、この世界も、完全なものへと昇華することができるはずだという思想でもあった。男と女、太陽と月、昼と夜、生命と死、すべてをひとつに統合したとき、人の魂もこの世界も神と対等になる。そういう意味では中世や近世を通じて反社会的な思想でもあり、弾圧の対象にもなった。 「それに、周囲の黒装束は錬金術の過程における第一段階、黒色化ニグレドを表してるんでしょう。喪服が意味する死も、錬金術が一度死を経てよみがえる過程と一致するわ」 「男女の白いベールは、白色化アルベド、第二段階、ということですね」 「死を経て白色化により復活した男女が、つまり二つの金属が結婚によって統合する。次の段階が黄色化キトリニクス、そして最終段階が赤ル色ベ化ドで、これが花嫁の赤い薔薇なんでしょう」  千景は、すっかり見物人も散らばった通りを海岸へ向かって歩き出す。風に吹かれて、さっき歩道に撒かれた黄色い花びらが透磨の足元に落ちる。新郎と新婦は、黄色化の道を歩むというアレゴリー、そこまで符合するなら、あれは錬金術を意識した悪ふざけだったのだろう。  しかし、単なる悪ふざけというには手が込んでいる。 「風が強くなってきましたよ。本当に海まで行くんですか?」  千景の家である異人館は山手のほうだが、彼女が海を見たいと言ったために、あの妙な一団に遭遇した。透磨としては、早く家まで送り届けたい。 「明日は朝から出かける予定ですし、早く帰ったほうがいいのでは?」 「ちょっと歩きたい気分なの」  美術館を訪れた帰りだった。都会の美術館は混雑しているし、街も電車も人だらけだ。展示された名画を、ひとつ残らず頭に詰め込んだ千景にとっては、しばし余韻に浸る時間が必要なのだろう。  しばらく歩くと、千景は歩道橋へと階段をあがる。高架の向こうに港の明かりが見え、潮の匂いが強くなる。 「さっきの、ただの遊びなのかしら」  歩道橋の上で、千景はまた、思い出したように言った。 「遊びでないなら? なんだと言うんです?」 「儀式? でも、前にも見たことがあるような……」 「すっぱだかの男女をですか?」 「違っ……、そっちは見たことないわよ。女の人、見たことがあるような気がしたの」 「顔が隠れていましたけど」 「でも、見覚えがあるって気がして……。透磨は? 見たことない?」  自分はおぼえていなくても、透磨がおぼえているかもしれないと思ったのだろう。  千景は七歳より前の記憶がほとんどない。祖父母との楽しいやりとりならいくらかおぼえているようだが、忘れたいことだけ忘れてしまったというところか。透磨と親しかったことも忘れてしまった。 「さあ、今ので僕が思い出すのは、白い蚊帳をかぶって踊っていたあなたですね」 「えっ、何それ!」 「三歳くらいでしたか。花嫁さんだと言い張ってました。しかも盆踊りをしながら舞踏会だと譲らないんです」 「あなたって、ほんと意地悪ね!」  十年ぶりにイギリスから帰国して、透磨と再会した千景は、彼のことを本気でいけ好かない男だと思っているようだ。  それでいい、と透磨は自分に言い聞かせる。千景が何もかも思い出すくらいなら、透磨を慕っていたことも含めて忘れているほうがいい。  千景は、口ほどには気分を害した様子はない。月を見上げながら、透磨の少し前を歩いている。本気で腹を立てたなら、彼のそばから姿を消すだろう。さしあたり彼は、同じ海風を頰に受けて、千景のつやつやした髪が流れるのを眺めていられることに安堵する。  二度と、彼女がぼろぼろに傷つくようなことがあってはならない。それが、透磨に千景の将来をゆだねていった此花統治郎の願いだから。 * * *  山に囲まれた集落に、瓦屋根の日本家屋が建っている。寺社を思わせる立派な門を入っていくと、石畳の奥に旅館かというほど広い玄関がある家だ。中も想像したとおりの和室だが、広々とした畳に洋風の応接セットが置かれ、縁側の向こうに日本庭園を眺めるといった風景は意外だった。  翌日、此花千景は、西之宮透磨とふたり、宝塚にある山あいの村を訪れた。  その家には、絵が入っていると代々伝わってきた箱がある。しかし中の絵は、けっして見てはいけないとの言い伝えらしい。持ち主である当主が、なんとか中の絵を鑑定することはできないかと知人の古美術商に相談したところ、画廊を経営している透磨に話が来たのだそうだ。そうして透磨は、千景ならできるのではないかと思い、話を持ちかけてきた。  絵は、南蛮渡来のものだという。古い西洋美術なら千景の守備範囲だ。所有者は旧家の女主人とだけ聞いていたが、ふたりの前に姿を見せたのは、いかにもそんな女性だった。  白髪まじりの髪をひとつに結った老婦人で、とがった鷲鼻は日本人離れしている。グレーのワンピースは襟が詰まっていて、古めかしいデザインだと千景は思った。 「わざわざ足を運んでいただいて、申し訳ありません」  成瀬美津と名乗った彼女の、隙のない印象は、きびきびした口調にも宿っていた。 「貴重な絵画をお持ちだとうかがいました。めったにない機会ですので、こちらこそありがたいお話です」  透磨がきれいにお辞儀をする。千景にはぶっきらぼうで嫌味な彼だが、老舗画廊の主人として、顧客の信頼を得る能力はそなえているらしい。事実彼は、とくに年輩の人には好青年に映るようだ。 「貴重かどうかはわかりません。禁断の絵と呼ばれておりまして、これまで誰も見たことがないのですから」 「見てはいけないのはなぜですか?」 「危険なのだそうです。見た人が呪われ、死に至るとか」  きっと図像術だ。そういう絵こそ、千景が研究しているものだったから、不謹慎ながら胸が高鳴った。  図像術は、美術史の中でも特殊な分野だ。世間にはあまり知られていない。昔から〝呪われた絵〟というものがあり、見た人を惑わせ、破滅させると伝えられていたが、魔術や悪魔の所行として焼き捨てられた。今でも図像術など迷信だと言う人は少なくないが、特殊な図像が潜在意識に働きかけ、人の心を操るという絵画の存在を、千景は研究者として疑っていない。  ヨーロッパでは、いくつかの美術館がそういった絵を厳重に保管しているし、どこかの古い屋敷に眠っている可能性もあると手を尽くしてさがしている。  図像学の一部として研究されてきたのは、潜在意識に届くそのメッセージが、ヨーロッパで発達した図像に込められているからだ。絵の意味を象徴的に示す図像は、描かれたものやその組み合わせから絵画に真の意味を込めるもので、肖像画でも風景画でも、一見した印象とはまったく違うテーマを持たせていた。宗教的なテーマを表現していることが多く、〝水差し〟は葡萄酒を連想させ、つまりはキリストの血であるというふうに、昔の人は文字よりもはっきりと、絵を見て意味を読みとった。  近世以降、図像の意味も使い方も忘れられていくが、今でも残っていて象徴的に使われるイメージもある。天秤が正義の象徴であったり、アスクレピオスの杖が医療機関のマークに使われていたりするのは誰でも見たことがあるだろう。  ただ、単なる図像とは違う、図像術は危険なものだ。今となっては意味を理解できる人はいないのに、見た人の潜在意識に働きかける。像が持つイメージは、言語を超えて心に刻まれる。根元的で強いイメージは原始的であるがゆえに恐怖や快楽と直結していて、視覚からダイレクトに刷り込まれたとき、そのメッセージにはあらがえない。催眠術にかかったように、それともフラッシュバックからパニックにおちいるように、暴力的になったり自分を傷つけることも少なくない。  事実図像術は、当時の上流階級が使う毒薬のようなものだった。はっきりと効果のある本物を描ける画家は少なかったはずだが、その絵はひそかに高値で取り引きされただろう。  千景は、絵の影響から身を守るすべを心得ている。あやしい絵があれば鑑定するのも仕事だ。 「そのように、先代からは聞きました。先代も、そのまた先代から聞いたというだけですが、絵の存在を皆が本気で恐れていたのは確かです」  先代と耳にし、千景は何気なく鴨居の上を見た。肖像画が並んでいる。先祖代々の肖像だろう。誰も似ていないな、と思った千景の心を読んだかのように、彼女は口を開いた。 「私は養女ですので、実の父ではありませんが、右端が先代です」 「写真ではないんですね」 「成瀬家の者は写真を撮らないのです」  口髭の男性が、紋付きを着て描かれている。手には一本のオリーブの枝。ヘアスタイルが古そうだが、男性は四十代くらい、ほかの先祖が老人なのとくらべると、若くして亡くなったのだろうと思われた。 「そもそもこの家は、血縁だけで後継者を選ぶことはありませんでした。娘の雪江も養女なんです」  それも、見てはならないという絵を受け継ぐためだろうか。 「ですから孫と言ってもいいくらいの年齢ですが、そのせいか家を継ぐにはまだまだ頼りなくて。……実をいうと、少々手を焼いております。成瀬家の信仰を軽んじているようで、このままではとても跡継ぎにはできません。困ったものです」  両手を組んで美津は祈るようなしぐさをした。 「信仰、ですか?」  思いがけなくて、千景は問う。 「聞いていらっしゃいませんでしたか?」 「ええ……、すみません、信仰がおありなんですね」  彼女は深く頷いた。 「私は、聖者におつかえしており、ときにはお告げを受け取ります」  急に、彼女の古めかしい服装や、先祖の肖像画に描き込まれたオリーブや書物、欄間のザクロが意味を持って千景の中で浮かび上がった。どれもキリスト教ではよく使われる図像だ。ザクロはイエスの受難の象徴として絵画でもよく描かれる。  しかし、彼女は正確な意味でクリスチャンではなさそうだった。そうだったなら、聖者につかえるとは言わない。 「カルト、などと思うかたもいるようですが、私どもの信仰は十六世紀にさかのぼります。けっして新しいわけではなく、その昔は、隠れキリシタンと呼ばれ地下に潜っていた時代もありました」 「そうでしたか」  禁じられた信仰を、ひっそりと守ってきた隠れキリシタンの末裔が、今も存在しているというのは千景も聞いたことがあった。長崎が有名だが、戦国時代には来日した宣教師を保護した大名は各地にいて、禁止されるまでそのような土地では信仰が広まった。禁止後も、信仰を捨てられなかった人々は、表向きは仏教徒を装いながら独自の方法で儀式を続けたが、長い鎖国時代にカトリックとは分かたれてしまった。そのため、明治になって禁を解かれたとき、晴れて正式なクリスチャンになることを選んだ人ばかりではなく、これまで通り隠れて行われてきた独自の信仰を貫くことを選んだ人々もいるという。  この、成瀬の家はそんな一派なのだろうと千景は想像した。  おそらくは、成瀬家が司祭のような役目を持ちつつも、お告げを受け取るという巫のようなものとして人々に助言を与えてきたのだ。 「絵は、隠れキリシタンの遺産なのですね」  問いながら、千景は考えている。キリスト教が日本で禁じられる前に持ち込まれた絵なら、ヨーロッパではルネサンス絵画の全盛期だ。異端狩りがはげしくなる前でもあり、図像術も熱心な貴族がお金を出し研究させた。当時の、そんな絵が海を渡ってきたとしても不思議ではない。 「おそらくそうです。成瀬は当時、あるキリシタン大名の家臣で、絵をあずかったと聞いています。大名が棄教してからも、絵を保管してきました。以来この家に伝わる秘密を、禁断の絵を守れるかどうかが、後継者を選ぶのに欠かせないことでした」  美津は目を伏せた。 「じつは、専門家のかたに鑑定していただこうと思ったのは、これからの世の中、ひとつの家で絵を保管するのは難しくなっていくと感じているからです。もし私の代で、あるいは次の代で成瀬が途絶えたとき、どうやって絵を守ればいいか、考えておくべきではないかと……。ですが、事情が変わりました。あらためてお願いしたいのですが、絵をさがしていただけませんでしょうか」 「さがす、といいますと」  急に話が妙な方向へ進みはじめた。透磨は眉をひそめる。 「箱ごと、絵が消えました」 「盗まれたということですか?」 「絵が勝手に消えるのでなければ……」  美津は人を呼ぶ。屋敷に手伝いの人がいるのは、この部屋へ案内されたから知っているが、当主の身の回りの世話をするには高齢の女性だった。それでも彼女は美津に呼ばれ、機敏な動きで部屋へと入ってきた。  和服に割烹着の老婦人は、手には風呂敷に包まれた箱をかかえている。無言でそれをテーブルに置く。 「ありがとう、お姉さん」  十近くは年上だろう女性にそう呼びかけたのは、同じ信仰ゆえの呼びかただろうか。それとも本当に姉妹なのか。しかしそんな疑問よりも、千景はすぐに目の前の箱に気持ちを集めていた。 「これは?」 「禁断の箱と同じものです。盗まれないよう、祭壇にはこの空箱を置くこともあります。ふたつをいっしょに保管して、どちらが本物かわからないようにしています」  美津が風呂敷をほどく。現れた桐箱は、玉手箱をイメージさせる形だが、装飾もなくシンプルだ。ただ、禁断の絵が入っている箱のダミーにしては、厳重に封がされている様子はない。ふたの上に組み紐が結んであるがそれだけだ。浦島太郎のように、禁じられても開けてしまう人の性を試しているかのようだ。  ふたを開けようとした美津に、千景は声をかけた。 「すみません、こちらに、絵が入っている可能性は?」 「ありません。箱は似ているとはいえ木目が少し違います」  誰かが中身を入れ替える可能性はないだろうか。絵を盗もうとした人が、わざわざ絵を取りだして空箱へ入れ直すのはありえない。そもそも、入れ替えようとした時点で、絵を見てしまうことになれば墓穴を掘るも同然だ。それでも、千景は警戒した。図像術が本物なら、一瞬でも視界に入れるのは危険だ。 「念のために成瀬さん、わたしに開けさせてください。それから、少し離れていただけますか。万が一、絵が戻されていてはいけませんから」  彼女は千景の言うとおりにし、縁側へと出ていく。障子は開け放されているが、絵は見えない距離だろう。  透磨は、その場を動かない。彼には図像術はきかないというし、それは事実だ。見たものがどれほど強く影響するかは人によるところが大きい図像術は、きかない体質の人もいる。同じ体験をしても人によって衝撃の度合いが違うのは当然だ。ただ透磨自身は、かつて見たことがある図像術の影響が強すぎて、ほかの術が効かないのだと言っていた。  本当かどうか、千景は半信半疑だ。もし本当に見たことがあるのなら、それはどういう図像術だったのか、命を奪うようなものではなかったのか、何を彼に与えたのか、少しも語らないからだ。  千景は紐をほどき、慎重にふたを取った。そうして透磨とふたり、ため息をついた。  空っぽだった。箱にはちりひとつ入っていない。底板が見えるだけだ。  透磨が縁側の美津に声をかけようとしたとき、男がひとり庭へ入ってきて美津に話しかけた。 「美津さん、御札をいただけませんかね。不良息子に憑いた悪魔を追っ払ってください」 「息子さんがまた何か? お気持ちはわかりますが、悪魔は本人が追い払おうとしなければ、また何度でも現れますよ」  おだやかな声で美津が諭す。 「それに私は、悪魔を祓うような力はありません。聖者にお祈りするだけです」 「では、息子のために祈ってやってください」 「そうしましょう。あとで御札を届けます」  声をかけるタイミングを見失ったまま、千景たちは縁側での会話を聞いていた。 「このごろ、悪魔が力を増してやいませんか? この成瀬にも、じわじわと爪を伸ばしているようで」  手伝いの老婦人は、男が差し出すお布施らしきものを受け取りながらそんなことを言う。 「祈りを必要としない人が増えました。雪江さんがおかしいのも、悪魔のせいかもしれません」  雪江というのは、美津の養女のことではないか。 「お姉さん、不吉なことを言うものじゃありませんよ」 「でも、もしかしたら禁断の絵は、雪江さんが……」  美津は大きく首を横に振った。 「どちらの箱に絵が入っているのか知らないのですよ。開けて絵を確かめたなら、命を落とすと言い伝えられていることはあの子も知っています」 「でも、あれから連絡も取れないんです。もしかしたら、何かあったのかも……」  大きくため息をついた美津は、祈るように小さく十字を切る。すぐに背筋を伸ばし、千景と透磨に向き直った。 「西之宮さん、此花さん、どうか、禁断の絵を見つけてください。お願いします」  それは、娘を見つけてほしいという願いにも聞こえた。 *この続きは製品版でお楽しみください。 谷 瑞恵(たにみずえ) 2月3日生まれ、水瓶座、O型、三重県出身。『パラダイス ルネッサンス』で1997年度ロマン大賞佳作入選。コバルト文庫『伯爵と妖精』シリーズ、集英社文庫『思い出のとき修理します』他、著書多数。 集英社eオレンジ文庫 異人館画廊 当世風婚活のすすめ 立読み用 著者 谷 瑞恵 © MIZUE TANI 2016 2016年11月30日発行 この電子書籍は、集英社オレンジ文庫「異人館画廊 当世風婚活のすすめ」 2016年9月21日発行の第1刷を底本としています。 発行者 北畠輝彦 発行所 株式会社 集英社     東京都千代田区一ツ橋2丁目5番10号     〒101-8050     [電話]     03-3230-6080(読者係) 制作所 トッパングラフィックコミュニケーションズ