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作者:結城光流,伊東七つ生
类型:乙女向 书籍样本 日文
出版:2016-11-02(角川书店)
价格:¥560 原版
文库:角川Beans文库
丛书:少年阴阳师(50)
代购:lumagic.taobao.com
少年陰陽師 境の岸辺に甦れ 少年陰陽師 境の岸辺に甦れ 【電子特典付き】 結城光流 角川ビーンズ文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載したりすることを禁止します。また、 本作品の内容は、底本発行時の取材・執筆内容に基づきます。  目次 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 あとがき 電子書籍限定特別収録 少年陰陽師パラレル現代版「学校の怪談」  あの歌が、葬列を連れてくる。     1  妻戸が開いて、三つの影が飛び出す。 「じゃあなぁ、晴明」 「まったなぁ」 「今度は土産持ってきてやるからなー」  単の肩に衣を羽織っただけの晴明は簀子に出て、築地塀を飛び越えていく雑鬼たちに手を振った。 「姫宮様方をしっかりお守りしておくれ」  すると、一度向こう側に降りたはずの雑鬼たちが、再びぴょこんと塀に飛び上がってきた。 「任せとけ!」 「姫宮も藤花も、俺たちがついてれば心配ないぜ!」 「鴉も車もいるしな!」  晴明の肩の横を黒い塊がすり抜けて羽ばたく。 『お前たち! さっさと行かぬか!』 「はぁーい」  一喝された雑鬼たちは悪びれた様子もなく塀を飛び降りていく。  しばらく庭の上空を旋回していた漆黒の鴉は、晴明の許に戻ってきて高欄にとまった。 『安倍晴明。口惜しいが、我が姫を任せたぞ』 「承った」  重々しく応じる晴明の背後を覗くように首をのばし、鴉の嵬は沈んだ面持ちになる。 『姫……おいたわしい……』  晴明の背後にあるのは、老人の室だ。広々とした室内はたくさんの書物や道具であふれている。部屋につづく妻戸は半分開いて、床に敷かれた袿の上に横たわった風音と勾陣の横顔が見えるのだった。  九条の藤原文重邸から戻った勾陣は、気力も体力も霊力も使い果たして意識を失った風音を背負っていた。  文重と柊子の最期と、九条の邸が燃え落ちたことを晴明に報せると、勾陣はそこで糸が切れた人形のように頽れて、そのまま動かなくなった。  晴明が神将の天后に命じて嵬を呼びに行かせたところ、鴉は電光石火の速さでまさにすっ飛んできた。  風音も勾陣も、今日明日に目を覚ますことは難しそうだった。  朱雀を呼んでふたりを室内に運んでもらい、晴明はその間に式を作った。  風音の形代だ。竹三条宮の者たちに不在を怪しまれてはいけない。形代を局の茵に寝かせておいて、宮の者たちとのやりとりは藤花に頼むしかないだろう。  確か藤花には風音が赤瑪瑙の勾玉を与えているのだ。肌身離さず身につけていれば、呪詛封じを受けなくても七日程度なら凌げる。しかし不在がそれ以上長くなるようだと、藤花の魂を縛る妖の呪が暴れ出す。  風音が回復するまで時間がかかるようなら、何かしらの理由をつけて、自分か成親か昌親が竹三条宮に伺候し呪詛封じの術をかける必要が出てくるだろう。 『よいか安倍晴明よ、我がいぬ間、身命を賭しても我が姫をお守りするのだぞ!』 「嵬殿。我が邸は我が結界と十二神将天空の通力によって堅固に守られておりますゆえ、ご案じめさるな」 『む、そうであった。……では』  背に結びつけた形代を確かめて、嵬はさっと飛び上がると瞬く間に夜闇に溶けて見えなくなった。  竹三条宮まで、嵬の翼なら四半刻もかからない。さっきの雑鬼たちより速く竹三条宮に帰り着くだろう。  鴉の飛んで行った方角を見上げて、晴明は息をつく。  もう亥の刻になるだろうか。空は薄曇りで、十三夜の月がのぼっているのが時々うっすらと見える。時を経るごとに雲が厚くなっているような気がする。月が天頂近くに昇る頃には、雲で見えなくなってしまうかもしれない。  目を凝らして雲の向こうを見る。月影はかろうじて追えるが、星明かりは無理だった。  一度は完全に祓われた陰気が、また漂いはじめている。陰気が完全に消えるまで、雲ひとつない夜空は難しいかもしれない。  風が吹き、庭の草木をざっと震わせた。  木枯れはここには入り込んでいない。晴明自身の結界と、天空の神気に囲まれたこの安倍邸は、いまも清浄な空気に満たされているからだ。  肩越しに室内を顧みる。横たわったまま動かない風音の横顔は、色濃い疲労に覆われている。  風音のまとっている衣の肩口から胸元にかけて、どす黒い乾いたしみが広がっている。  よくよく確かめれば、首の、もっとも太い血の道の辺りに横一文字の傷があり、鋭利な刃物で切られたのだと見て取れた。  誰が何のためにそんなことをしたのか、晴明にはわからない。わかるのは、おびただしい量の失血で風音の体は氷のように冷え切っており、当分は予断を許さないということだけだった。  血は、命のもとだとも言う。血を失えば命が流れ出す。血が足りないと体は冷える。  冷えは、死に近しい。  陰気に触れると体が冷えるのは、生気を奪われることが死に通じているからかもしれないと、晴明は思った。  晴明が風音を温める術をかけようとしたとき、朱雀が無言でそれを制して彼女の体を取り巻くように神気を放った。未だ万全でない晴明を思いやってのことだろう。いつもならどうということもない行動だが、いまの朱雀にはそれなりの負担になるはずだ。  朱雀はそのまま異界に戻った。  眠る風音の面持ちは、苦痛を堪えているようにも見える。  播磨と阿波に向かった昌浩の頼みを受けて、彼女は九条の文重邸に向かったのだ。  これほど満身創痍になってもなお昌浩の意を汲み、役に立とうと、力になろうとするのは、その奥底に贖罪の念があるからだ。  それは、彼女自身が納得するまで終わらない。たとえば晴明が、たとえば昌浩が、もういいと言ったとしても、彼女はやめようとしないだろう。  風音はその命のある限り、昌浩への償いをやめないだろうと晴明は思っている。それが間違っているか、正しいか、晴明にはわからない。  正しくないかもしれないが、風音の心がいつか救われることを願う。  岦斎の心が救われたように。 「……昌浩は、気がついたかのぅ」  霊力で編まれた光の球に帝と藤原敏次の魂蟲を入れて、大切そうに抱えてきた太陰の姿が脳裏に甦った。  昌浩が取り戻したのだと言っていた。敏次の魂蟲は、帝の魂蟲をかばって一度敵の凶刃に散ったが、死にゆくさだめを昌浩が命がけで神に振り替えて辛くも切り抜けたのだと。 「よくやりよったわ」  腕を組んで晴明は苦い顔をする。  太陰から話を聞いたとき、晴明は文字どおり冷や汗が出た。  ひとの寿命を他のものに振り替えて救う術は、晴明も昔行ったことがあるのだが、神の助力を得てなんとか成功させたのだ。比喩ではなく命がけの術なのである。  しかも、死のさだめを神に振り替えたという。ならば、振り替えられた神はさだめに従い死んだはず。  神が死ねば、ひずみが生じる。どのような神であったとしても、死は周囲に凄まじい影響を及ぼす。  あくまでも晴明の推測だが、昌浩はおそらくそのひずみが他者に及ばぬように、すべてを自分で受けたのだろう。道反の勾玉が砕けたというから、その負荷は想像を絶するものだったに違いない。  当分はおとなしく安静にしていろと言ってやりたいが、同時に晴明は、よくやったと昌浩を誉めてもやりたかった。  もしかしたらお前はもう、儂を超えたかもしれんぞ、と。  心の底から言ってやりたいと、思った。  もっとも、そんなことを晴明が口にしたら、神将たちが寄ってたかっていかに昌浩がまだまだであるか未熟であるか配慮が足りないかをまくしたてそうなので、胸の内に留めることにしたのだが。 「本当に、よくやった」  大内裏の方角を見やって呟く。  ざっと音を立てて風が吹く。大内裏の方角から吹いてきた風だった。  帝の魂蟲と敏次の魂蟲は、無事宿体に還った。  晴明は大したことはしていない。在るべき場所に還るようにと呪をかけて、宿体の許まで神将たちに運ばせただけだ。  太陰はそのまま阿波に戻った。  見届け役を命じた天后と天一によれば、魂蟲たちは放されると、しばらくの間確かめるように宿体の上空をふらふらと舞い、やがて口の中からすうっと体内に入って消えたということだ。  そして、抜けてしまった魂の半分も、魂蟲に誘われるように宿体に還ってきたという。  還ってきた魂が穢れていないか、亡魂が入り込んでいないか。神将たちはそこまで確かめて、宿体の主が目覚めるのを見届けてから晴明の許に戻った。  神将たちは、魂蟲の軌跡が緒のように引いていたとも言っていたから、蟲の形はあくまでも仮の姿で、本来は魂緒だったのかもしれない。  魂緒が失われれば、魂魄を体につなぎとめるものがなくなる。魂魄の完全に抜けた宿体の機能は止まる。それが宿体の死。ひとが知っている、死という現象だ。  魂蟲を失った敏次の魂魄は半分抜けていたというから、魂蟲は魂緒の変じた姿だと考えていいだろう。  姿を変える鍵は、名だ。  魂緒を失った敏次は昌浩の唱えた布瑠の言と、陰陽寮の者たちの切な想いにぎりぎりのふちで救われた。そして、昌浩が取り戻した魂蟲が宿体に還ったことで、開かれていた死のあぎとから完全に逃れることができたのである。  きっと昌浩は、帝や敏次がどのように目覚めたのか、どうやって魂蟲を宿体に戻したのか、そういったことを聞きたがるだろう。  ふたりが助かったと知らせる式は打ったが、そこに記せたのは端的なことのみだ。 「あとで書にまとめておいてやるかのぅ……」  勿論話もしてやるつもりだが、繰り返し読めるように書き記しておけば、いつか何かの役に立つかもしれない。  晴明は、薄く笑った。  天命までもう少し、時はある。あるが、あるからといって、安心していてはいけない。伝えたいことはまだまだあって、それを思えば時間はいくらあっても到底足りないのだから。  昌浩がいる四国の阿波に晴明が式を放ったのは、午の刻を半分過ぎた頃だ。白い燕の姿をした式は、阿波に向かって真っすぐ飛び去った。何事もなければ夕方には届いたはず。  こういうとき、風将の風が使えないのは不便だなと思った。  白虎はいま、太裳と玄武とともに愛宕の異境の地に赴いている。愛宕の天狗颯峰に乞われたのだ。帰ってくる気配はまだない。  異境の地の封じの綻びは、晴明が想像しているより状態が悪化しているのかもしれない。 「あれだな。儂がさっさと万全になればいいんだな」  腕を組んで自分の言葉にうむうむと頷く晴明である。  それを聞いて雷を落とす使役がいま誰も近くにいないからこそ言える台詞である。  白い異形の姿を取った紅蓮も、勾陣も、室内で横になったままぴくりともしない。天空は入らずの森の中にいて、絶えず結界を守っている。  神将たちの顔をひとつずつ思い浮かべる。天后と天一は異界に戻らせた。青龍は物の怪を嫌って異界から降りてこない。朱雀は勾陣と風音を運んですぐ異界の天一のところに帰った。  愛宕の異境の地に向かわせた白虎、太裳、玄武。  阿波の方角に目をやる。  太陰と六合は、昌浩のところだ。太陰はどうにか動けるが、六合は智鋪の祭司の放った邪念に神気を根こそぎ奪われて意識がないという。神気を回復するために、どれくらいの時間がかかるか、見当もつかない。  青龍も朱雀も、回復しきってはいない以上、何かあったら勾陣のように一気に消耗して倒れるだろう。  晴明は改めて痛感する。有事の際に戦える者が、ほぼいない。  これまではその手勢の穴を風音が補ってくれていたが、彼女も倒れた。 「昌浩の熱は、下がったかのぅ……」  夕方に一度目を覚ましたと、太陰の風が知らせてきた。熱が高く、目覚めたがすぐに朦朧としてそのまま眠ってしまったということだ。  近くにいれば、快癒の禁厭でも何でもしてやるのだが、遠くにいるとそれもできない。 「じい様は、最近役立たずだのぅ、昌浩や……」  昔のようにいつでも近くにいてやれれば、なんでもしてやれるのに。  ふと、ひらめいて、晴明は瞬きをした。  そうだ。道反の巫女に新たな勾玉を願う文をしたためよう。  見鬼の才を失った昌浩は、勾玉がなければ視ることができないのだ。  明日の朝にでも式を飛ばせば、昼過ぎには道反の聖域にたどり着けるはず。遅くとも数日の内には新たな勾玉を用意してもらえるだろうから、太陰か六合に聖域まで受け取りに行くように命じよう。 「ああいや、六合は神気を根こそぎ奪われて意識がないか。では太陰に……」  ふいに、ぴちゃんと、水音がした。ような気がした。  視線を走らせる。  庭の池に風に運ばれた葉が落ちて、大きな波紋を描いていた。  幾重もの波紋が生じ、消えていく。  厚みを増した雲に覆われて、十三夜の月は完全に隠れてしまった。  月も星もない夜の中、晴明は水面をじっと見つめる。 「……予言は、呪、か……」  岦斎が、何十年も苦しめられた件の予言。  小野時守を狂わせて、尸櫻の界の屍を狂わせて、文重も柊子も予言の前に散った。  その原因とも言える予言を放った件が、智鋪衆の従える式だったと、太陰の風に知らされたとき、晴明は凄まじい衝撃に打ちのめされて、目の前が真っ黒になった。  件という妖は、確かにいるのだ。  件は何十年かに一度生まれて、予言を放つ。その予言は外れない。  晴明も岦斎も、ほかの者たちもみな、それを知っていた。  現れた件の放つ言葉は予言。予言を放った件は死ぬ。  予言を放った件はいつもそのまま消えたから、消えたのだから死んだのだと思い込んでいた。  それすらも、もしかしたら智鋪衆の、宮司や、宗主や、祭司の、思惑の一部だったのかもしれない。  風に運ばれて肩に落ちた葉に気づき、それを取って口の中で小さく呪を唱える。  少しだけ枯れかかっていた葉は、小さな飛蝗に変じて、晴明の手から飛び去った。 「─────……!」  たまらず唇を嚙む。忸怩たる思いに押し潰されそうだ。  どうして気づかなかったのか。  陰陽師がこうやって式を作るように、智鋪衆もまた、式たる件を作り出していたのだと。  一度予言を放てば死ぬ件。死んでもすぐにまた生まれてくる件。それがなぜかを誰も考えなかったのは、予言は外れないという言い伝えと、予言に心を縛られてしまったからだろうか。  件は予言を放つ。件の予言ははずれない。  それは、件というものを知ったと同時にかけられている呪。  高欄に手をついて、晴明は歯嚙みする。  彼が件という妖を知ったのは、元服前の、童だった頃だ。件以外にも、たくさんの妖、たくさんの怪がいると。  そう、件というものがいると晴明に教えたのは、都に棲まう雑鬼たちの中のどれか。  より詳しく知ったのは、陰陽寮に入ってから。調べものを命じられた中に、件のことも含まれていた。  件を知るものはたくさんいる。その誰もが、件が予言を放つことを知っている。その予言が外れないことを知っている。  件が発したという死や滅びに関わりのない予言もたくさん残されている。  だが、聴いた者を縛り狂わせる予言は、智鋪衆の式である件だけが放つ呪。  ということは。  智鋪衆は、晴明や岦斎が産まれるずっと前から、件を式として使役し、あるいは件という式の形代を作り、予言という名の呪をかけてきたということではないだろうか。  件の予言で人生を狂わされた者はことごとく、力の強い術者。  智鋪の件は、相手を選んで予言を放っている。  智鋪衆は、件の予言という呪で力の強い術者を葬っている。 「なんの…ために……」  呟いても、答えはない。  ざわざわと、木々が唸りを上げる。風が駆け抜けるたび、まるで何かを訴えるために枝葉を打ち鳴らして、叫んでいるかのようだ。  穢れのもとは断たれた。木枯れを生んでいた柊の子は、在るべき姿に戻った。  木枯れはやみ、気枯れは止まり、穢れは消える。  多少時間はかかるかもしれないが、気はまためぐりだすだろう。  ぴちゃんと、再び水音が聞こえた。  池の水面に波紋が広がる。  波で歪む水面に目をやった晴明は、ゆらゆらと揺れるそこに人影を見出した。  はっと息を吞み、視線を上げる。  池の向こう側に、思いもよらない男が立っていた。  思わず止めた息をゆっくりと吐き出して、晴明は口を開く。 「……これは……珍しい……」  老人の呟きに、男は尊大に笑った。  このままでは見下ろす形になるなと考えた晴明は、何気ない素振りを装って膝を折る。 「どうされました、冥官殿。あなたが姿を見せるとは」  また何か、恐ろしいことが起こるのではないか。  百十数年以上前にひととしての生を終えたこの男は、転生の輪を外れ鬼として永劫の時を生きている。  時々夢やこの現世に出てきては、無理難題を吹っかけたり、厳しいことを一方的にまくしたてたり、ああ、神将たちを手駒に使われたこともある。  それでも、根っこの部分で冥官の言うことは筋が通っているので、晴明はこの男に逆らわないことにしている。  機嫌を損ねて、あの川べりでいまも待っているだろう妻に累が及ぶようなことは避けたい。  ふと、妻が言っていたことを思い出した。 「……そういえば、以前妻が申しておりました」 「なんだ」  短く応じる冥官の表情は変わらない。 「官吏殿のことを、情けのある方だと……」  もう何年も前のことだ。  天命にはまだ時があるのに、彼岸と此岸を隔てる境界の川の近くまで行ってしまったことが何度かある。  境界の川のほとりには、若くして儚くなった晴明の妻が、闇を恐れ獄卒たちに怯えながら留まり、愛する夫が天寿をまっとうしてやってくるのを待っているのだ。  ひとりで川を渡るのはさびしいからだと、彼女は言うだろう。でも本当は、寂しがり屋の夫がひとりで川を渡らずにすむように、怖いのを我慢して待ってくれているのだ。  早く行ってやりたいと思う心は本当だ。だが、それと同じくらいに、息子や孫たちと過ごす時を、もう少しあと少し、重ねたいと思う心も本当。  吉昌を産んで、産後の肥立ちが悪く、どんどん弱っていった姿を思い出す。彼女が儚くなったあとで、庭に咲く山百合の香りが言いようのない悲しみを連れてきたことも。  あれは、十二神将天后が、妻のために山から採ってきて植えたものだった。  今年の秋にも、まだこの庭のあちこちに植えられている山百合は大輪の花を咲かせるだろう。 「……情けのある方、か」  低い呟きが晴明の耳朶を掠めた。  冥官だ。  晴明はふと眉根を寄せた。  なぜだろう。冥府の官吏の声音に、何やら自嘲めいた響きが含まれていたような。  怪訝な面持ちで冥官を見つめる老人は、妙な胸騒ぎを覚えた。  胸の奥底が、わけもなく冷えていく。鼓動が早まって、手足の末端が熱を失っていくのがわかる。  嫌な予感がした。  冥官が口を開く。  無性に、聞きたくないと、思った。  話し声が、聞こえる。 「……………………………………」  十二神将勾陣は、ふうと目を開けた。  頭の芯がぼんやりとして、思考が散漫だ。  どうしてだかわからないが、猛烈に嫌な気分だった。  それまで穏やかだったところに、突然凄まじく嫌なものがやってきたようで、だから目が覚めたのだと何の根拠もなく思った。  誰かが話している。思考がさだまらないので、耳に入った言葉はそのまま素通りし、頭の中に残らない。 「………………………………」  勾陣は、鉛のように重い頭を、緩慢に動かした。  闇の中でも神将の目は昼日中のように世界を見通す。  妻戸が半分開いている。月明かりも星明かりもない闇だと察せられる。  隙間から吹き込んでくる風が頰や額にかかる髪を遊ばせるのがいやに鬱陶しく感じた。  低く抑揚のない声が、妻戸の隙間から忍び込んでくる。  この声。聞いたことがある。知っている気がする。誰だ。  微睡の波が打ち寄せてくる。ぼんやりとした思考を夜より暗い波が覆っていく。  言葉の意味はわからない。  だが、これだけはわかる。  なんという、咒言にも等しい響き。  瞼が完全に落ちる寸前、妻戸の向こうに座した背中が、ひどくよろめいたように見えた。  だめだ。耳を貸すな。聞いてはいけない。  その男はいつも、絶望を連れてくる。 「───………」  聞くな。それは、私たちでは引き受けてやれない。どうにもできない。  だめだ、聞くな。 「…………………………………………────」  聴くな、晴明───。 ◇ ◇ ◇  冷たい風が、吹き抜けた。  簀子に座った晴明は、半ばうつむくようにしながら、ぼんやりと水面を見ていた。  いや、見ていなかった。  何も見ていなかった。目に映っていても、心まで届いていなかった。  黒い水面が風に揺らされて波打っている。  ざわざわと草木が唸る。 「………………」  老人の唇が、言葉にならない声をこぼした。それは、風にさらわれて音にならなかった。  池のほとりに立っていたはずの男は、とうに消えている。  晴明はのろのろとその姿を捜した。戯言だと、偽りだと、言ってはくれないとわかっていても、そうせずにいられなかった。  絶望はいつも、思いもよらないときに、思いもよらない姿でやってくる。  節くれだった指を高欄にのばして摑む。老人の指は小さく震えていた。  そのとき。 「晴明──────!」  老人は、はっと目を瞠った。  築地塀を飛び越えて、小柄な影が転がるように跳んでくる。  雑鬼。一つ鬼だ。  つい先ほど竹三条宮に帰って行った一つ鬼が、どうしたわけか涙で顔をぐしゃぐしゃにして簀子に飛び乗ってくる。  まろぶようにして晴明の膝にあがった一つ鬼は、羽織っただけの衣の袂を摑んで叫んだ。 「助けてくれ、助けてくれ! 晴明、早く!」  ぐいぐいと袂を引いて急き立てる一つ鬼の勢いに、晴明は思わずよろけて簀子に手をついた。 「……ま、待て。一つ鬼、どうし……」 「早く! 姫宮が、姫宮が! はや……、晴明……?」  一つ鬼は、ふと瞬きをして、体を傾けた。 「どうしたんだ、晴明。なんで、そんな、青……ていうより、白い顔、して……」  まじまじと見上げられた晴明は、はっとした様子で口元を片手で覆った。 「……少し、風に当たりすぎた」 「ええ? そんなふうには……」  冷えて寒くなった、という顔ではない。  一つ鬼は昔、晴明のこういう顔を見たことがあった。確か、見た気がする。  あれはいつで、何があったからだったか。  気になって記憶を掘り起こそうとする一つ鬼を、晴明は持ち上げる。 「儂のことはいい。それより、姫宮様がどうした」  その言葉で、一つ鬼の頭からすべてが吹っ飛んだ。 「姫宮が死んじまう! 助けてくれ晴明、姫宮を、姫宮を! 早く───……っ!」  色を失った雑鬼の叫びは、室内にも響く。  横たえられた風音の、力を失った指先が、ほんの僅かだけ動いた。 ◆ ◆ ◆     2  言霊は、成る。  予言は、成る。  咒言は、───成る。 ◆ ◆ ◆  虫の声が、聞こえる。 「─────…………」  どういうわけか、目が覚めた。  灯りのない暗闇の中、瞼をあげた昌浩は、視線だけを動かして辺りの様子を窺う。  ここはどこだったろうか。  考えたのはごく僅かな時間で、すぐに思い出すことができた。  榊衆、柊の郷の、朽ちた柊のある古い家の中だ。  耳を澄ますと、虫の声と、風の唸りがかすかに聞こえた。まるで、誰かがすすり泣いているような響き。  意味もなくひやりとして、昌浩は静かに深い息をする。  虫の声音が絶え間なく響いている。まだ皐月なのに、聞こえるのは秋の虫の声だ。  山奥だから、季節が早く過ぎるのか。  それにしては早すぎる。まだ夏の半ばだ。それに、穢れに満ち満ちていたこの辺りに、鳴き声が途切れないほどたくさんの虫がいるのか。  鈴を鳴らすような虫の声。 「…………………虫…?」  呟いて、耳をそばだてる。  本当に、虫なのか。いやに澄んだ音。何か硬いものを打ち鳴らしている音に、似ている気がする。  これはなんだろう。  気にはなるが、体は石のように重くて、指一本動かすのがやっとだった。  横になっているのに頭の芯がくらくらする。息があがって思考が散漫になっていく。  熱い。思考がぼんやりする。  熱があるのだ。限界を超えた負荷で、体が悲鳴を上げている。  視線を動かして闇の中に神将たちの姿を捜し、昌浩はふと目を細めた。  そうだった。道反の勾玉が砕けてしまったから、彼らのほうから姿を見せてくれないと、いまの昌浩には視えないのだ。  ずっと昔に失った見鬼の才を補うための、道反の巫女から授かった勾玉だ。もう少し体力が回復したら、久しぶりに訪ねて行って、砕けてしまったことを詫びつつ、新しいものを乞わなければ。  明日には熱が下がるだろうか。熱が下がっても、もとどおり動けるようになるまでには、かなりかかるかもしれない。  勾玉を授けてもらって、四国や中国に広がっている穢れを祓ってから都に戻る。  さて、何日くらいかかるだろう。十日、いや、もっとか。  できるなら、水無月になる前に帰りたいが。  帰って。そして。 「……じい様に……報告……しないと……」  起こったことや、見聞きしたことを、都にいる晴明に報せなければいけない。自分は晴明の駒としてここにきたのだから、報告は義務だ。  それから、助かった敏次の顔を見て。昌浩が戻る頃には敏次も回復しているだろうから、もう出仕を再開しているかもしれない。  きっとそうだ。敏次のことだから、勉学も仕事も遅れてしまったと悔やみながら、拾った命を大事にして精いっぱいの力を尽くして励むのだ。  会いたいひとは、ほかにもいる。御簾越しに垣間見るだけで、ほんのひとことふたこと言葉を交わすだけで、幸せな気持ちになれる。  それ以上は望まない。望んではいけないことを知っているから。 「……………」  荒い息を継ぎながら、屋内をのろのろと見渡す。