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作者:結城光流
类型:乙女向 全本 日文
出版:2016-10-28(角川书店)
价格:¥0 原版
文库:角川Beans文库
丛书:少年陰陽師(49.5)
代购:lumagic.taobao.com
「少年陰陽師」シリーズ50冊刊行記念·無料試し読み冊子 【期間限定配信】 「少年陰陽師」シリーズ50冊刊行記念・無料試し読み冊子 結城光流 角川ビーンズ文庫  目次 少年陰陽師 異邦の影を探しだせ 少年陰陽師 禍つ鎖を解き放て 少年陰陽師 真紅の空を翔けあがれ 少年陰陽師 いにしえの魂を呼び覚ませ 少年陰陽師 数多のおそれをぬぐい去れ 少年陰陽師 嵐の剣を吹き降ろせ 少年陰陽師 夕べの花と散り急げ 少年陰陽師 ひらめく欠片に希え 少年陰陽師 招きの音に乱れ飛べ 少年陰陽師 異邦の影を探しだせ 結城光流 角川ビーンズ文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載したりすることを禁止します。また、 本作品の内容は、底本発行時の取材・執筆内容に基づきます。     1 「…狭い」  ぼそりとつぶやくと、暗闇の中からこそこそと返答があった。 「しかたないだろう。これでも精一杯はしに寄ってるんだ、文句言うな」 「俺のほうが大きいから、お前より窮屈なんだよ。もうちょっと詰めろってば」 「だから、これ以上は寄れないっての」  ぼそぼそと、だが少しずつ会話は刺々しくなっていく。  漆黒の闇に、大仰なため息の音が響いた。 「まったく、もうちょっと考えようがあるだろう? なんだってこんな地味でかつおそろしく気の長いしかもあまり有効じゃなさそうな手しか出てこないんだよ」 「だったらもっくん、何かいい手でもあるのかよ」  明らかに気分を害したらしい声が、不満たらたらで言い募ると、もう片方はすぱんと切り返した。 「そういうのを考えるのはお前の仕事。人に頼ってどうするよ」 「……」  黙りこんでしまった相手に、「もっくん」と呼ばれたほうが更にたたみかけた。 「あーあ、今夜も収穫なしか。これでまた朝になったらすごすごと肩を落として帰るわけだろう? 張り込み始めてはや四日、俺はそろそろ邸でのんびり休みたいね。夜ってのは眠るためにあるんだからさ」  一瞬の沈黙の後、返ってきたのは不機嫌率八割突破の低い声。 「…だぁったら、付き合ってないでとっとと帰れっ! 第一、物の怪のもっくんの分際でのんびり休むだの夜は眠るためにあるだの、いけしゃあしゃあと言うなっ!」 「おっ、そんなこと言ってていいのか? 俺がいなかったら心配でしょうがないじゃんか。お前まだまだ半人前のくせに。あーあ、あの小さくてかわいい昌浩はもういないんだな、ほろほろ」  わざとらしくさめざめと泣くそぶりを見せる相手のほうをじとっとにらみ、昌浩は冷たく返した。 「…お前と初めて会ったのは確か数ヶ月前で、俺はすでに十三歳だったはずなんだが、どうして『小さくてかわいい』なんて台詞が出るんだ」  いくら目を凝らしても暗いばかりの空間に、かすかに笑う気配がする。 「……あ、ばれた?」  昌浩は、怒りと呆れのないまぜになった息を吐き出すと、ふと眉をひそめた。  ざわざわと、冷たい何かが接近してくる。  それは、常人には感じ取ることの出来ない特異な存在。だが、多少勘の良いものならば、気配くらいはわかる。更にその上をいくものには、おぼろに、あるいははっきりと、見えるだろう。  じっとりと、昌浩の額に汗がにじんだ。 「……来た」  奴は、こちらが姿をさらしていると現れない。三日待ってもだめだったので、今夜は姿を隠してみた。自分の判断は正しかったようだ。  さて、これからどうする。やはり一気に片をつけるために、ぎりぎりまで近寄ってきてから飛び出すのが得策か。  こそりと、緊張した硬い声が昌浩の耳に届いた。 「ぬかるなよ、晴明の孫」  ぶちっ。  頭のどこかで何かが切れた音がする。反射的に昌浩は怒鳴り返した。 「孫、言うなっ!」  がたがったんという派手な音が、彼の声に重なった。思わず立ち上がった拍子に、身を潜めていた唐櫃のふたが勢いよく飛んでいってしまったのだ。  ぱあっと開けた視界。  ときは夜半をかなりすぎた頃。ところは今にも崩れ落ちそうなあばら家で、穴のあいた屋根から月明かりが差している。  真っ暗で窮屈だった唐櫃とはうってかわった明るさと開放感の中、昌浩は足元をぎっとにらんだ。 「なんども言うけど孫言うなっ! わかったかっ、物の怪のもっくんっ!」 「そういうお前ももっくん言うな」  四つ足の生き物が、昌浩の足元で偉そうに目をすがめた。  それは、大きな猫のような体軀をしている。だが、猫でも犬でもない。ましてや他のどんな動物とも違う。こんな生き物は、誰も見たことがないだろう。額には紅い模様があって、それが花のように見える。耳は長く後ろに流れて、首周りを、まるで勾玉の首飾りのような形の突起が一巡している。目は丸く、透き通った夕焼けの色。  随分可愛げのある姿かたちをしているが、これは紛れもなく化け物なのだ。化け物、妖、異形、妖怪、化生の物、物の怪。いろいろな呼び方があるが、昌浩はとりあえず物の怪のもっくんと愛称で呼んでいる。だが、当の物の怪はそれがあまりお気に召さないらしい。そもそも物の怪と言うのは恨みつらみをもって死んだ人間の霊であって、自分のような異形の妖とはまったく別物なのだ、というのがもっくんの言い分だ。  対する昌浩は、「いいじゃん別に、たいした違いじゃない」と取り合わないので、物の怪は不本意ながらも「もっくん」と呼ばれている。  細い尾をぴしりと揺らして、昌浩をじとっと見据えていた物の怪は、その目をついと動かしふてぶてしい表情を作った。 「おい」 「なんだよ」 「前」 「あぁ!?」  半分けんか腰になりながら視線を向けて、昌浩はひくっと息を吞んだ。  目と鼻の先にいる、大髑髏。  すっぱりきっぱり忘れていたが、そういえば本来の目的はこいつだったのだ。  とっさに動けない昌浩の前で、大髑髏はその巨大なあぎとをくわっと開いた。  長岡京より平安京に、遷都が行われてから、およそ二百年ばかりすぎた頃。  都には、無数の妖が跳梁跋扈して、人々の日々の安寧を妨げていた。  いま、昌浩と対峙している大髑髏も、そういった妖怪のひとつだ。  昌浩は、その氏を「安倍」という。今年で十三歳になったが、元服はまだだ。近いうちに執り行われることになっているのだが、まだ吉日が判明していないので確定はしていない。  元服の日取りを決めるための卜占は、祖父が行うことになっている。昌浩の生まれた安倍家は、代々陰陽師を生業としているのだ。  さて、安倍昌浩は、非常に有名な祖父を持っている。  その名は安倍晴明。稀代の大陰陽師、「あの」晴明である。もはや語る必要もないほど有名な祖父を持つ昌浩、それゆえに彼はよく、こう呼ばれるのだ。  あの晴明の孫、と。  本人的に、非常に不愉快であるのだが。 「昌浩っ!」  叫び声で、昌浩ははっと我に返った。  眼前に迫る大きなあぎと。ずらりと並んだ歯は、ひとつひとつが人間の頭ほどの大きさがあって、それが目の前で上下に大きく開いた。  昌浩は目を剝いて叫んだ。 「歯────っっっ!」  冗談じゃない、あんな歯でがっちん、などと勢いよくかぶりつかれたら、自分の胴体なんて簡単に真っ二つ、ついでにそのままあの世行きになってしまうではないか。  昌浩は反射的に下がろうと右足を引き、唐櫃のふちに邪魔をされてあおむけに勢いよく倒れた。と、そのすぐ真上を大髑髏が飛び越える。がちがちと歯を鳴らす音が不気味に響いた。  もしかしなくても、転ばなかったらあの歯にかじられていたのではなかろうか。  万歳の体勢でそれを目撃した昌浩は、冷や汗を額ににじませた。怪我の功名というのは、きっとこれを言うのだろう。したたかぶつけた背中と頭が少し、いやけっこうかなり痛いが、忘れよう。 「昌浩、立てっ!」  物の怪が昌浩の狩衣の袖をくわえてぐいと引っ張る。慌てて跳ね起きると、突然物の怪が体当たりしてきた。 「うわっ」  横に吹っ飛ばされて、ごろごろと転がってからがばりと上体を起こし、昌浩は文句を言おうと口を開いた。 「なにす…っ!」  すると、それまで昌浩がいた場所に、大髑髏が突っ込んできたではないか。  すさまじい音を立てて、漆のはげた古い唐櫃が、木っ端微塵に砕け散る。衝撃であばら家が振動し、ほこりがぱらぱらと舞い落ちてきた。 「────…わぁい」  さすがに頰を引き攣らせる昌浩の傍らに駆け寄ってきた物の怪は、大髑髏をにらみつけた。 「やっとお出ましか、よくも四日も待たせてくれたな。ここで会ったが百年目」 「そうだそうだ、言ってやれもっくん!」  拳をぐっと握り締める昌浩の声援を受け、物の怪は更に続けた。 「いいか都を騒がす大髑髏、お前なんかこの、半人前でどじで抜けててかなり頼りないけど一応見習いの将来多分きっと立派な陰陽師が、ぱぱっとやっつけることになってるから観念しろ」  昌浩は思わず床に突っ伏した。  物の怪の、少し高めのよく通る声。しかし、その内容は。  彼は何とか立ち直って肘で身体を支えながら、不機嫌丸出しで眉を寄せた。 「ちょっと待てもっくん、その言い草かなりひどくないか」 「間違ってないだろう。俺は的確に評したつもりだ。それから、もっくん言うな」  昌浩の抗議にしれっと返し、物の怪は顎で大髑髏を示した。 「ほら、来るぞ」  都はずれのあばら家に、夜な夜な化け物が出没し、通りかかった動物やら人間やらを引きずり込んで食っているのでなんとかしてくれ。  そんな相談が祖父の晴明のもとに持ち込まれたのは、十日ほど前のことだった。  そのとき安倍邸は、近いうちに行われる予定の、末っ子の元服に向けてのこまごまとした準備に追われていた。  そろえなければならない調度品や衣類の注文、後の後見役にもなる加冠役や理髪役の依頼、お披露目の宴準備などなど、詳細を取り決めなければならないことが山積みで、あわただしいことこの上ない。その上、当事者である昌浩自身にも、修行という重要事項がのしかかり、万丈の山のようにそびえたっていたのである。  安倍邸の一角に構えられた自室で、昌浩は山のような書物に囲まれながら、それを一心不乱に読み漁っていた。  陰陽道の関係書物は、祖父の晴明を筆頭に、父の吉昌も、長兄の成親も次兄の昌親も大量に所有している。それらを片っ端から広げていた昌浩の後ろで、もはや同居人といっても過言ではない物の怪のもっくんが、読み終えた書をぱたぱたと重ね、巻物を巻き戻していた。  そこに、晴明が姿を現した。 「おお、感心感心。励んでおるのぅ」 「……どーしたんですか、わざわざ」  突然やってきて好好爺然と笑う晴明に、昌浩は書面から目を離して顔を上げると、うろんげに眉をひそめて見せた。  昌浩にはひとつの確信がある。  彼の祖父であり稀代の大陰陽師安倍晴明は、人間ではない。  晴明の母は狐だの、幼い頃には悪食の癖があっただの、鳥が会話している内容を理解しただの、おおよそ尋常ではない風聞を持つこの老人に対し、少年の見解はただひとつ。  たぬき。これだ。  しかも、ただのたぬきではない。何十年も生き延びて妖力を身につけた、化けだぬきに違いないのだ。昌浩幼少時に晴明がしでかしてくれたひどい仕打ちや悪行の数々が、それを裏付ける。  深くしわの刻まれた顔をほころばせて、晴明は書物や巻物をどけると、よいしょと大儀そうに腰を下ろした。円座も使わず冷たい木の床に。  昌浩はちっと舌打ちして、しかたなく立ち上がると、自分が使っていた円座を晴明に譲る。 「優しいなあ、昌浩や」 「……用件は何ですか」  素っ気ない昌浩の態度に気分を害した風もなく、晴明は扇をぽんとたたいた。 「そうそう、昌浩」 「はい?」  床にじかに腰を下ろしながら首をかしげる昌浩に、晴明はほけほけと笑いながらこう言った。 「化け物が出ているとのことだ。お前、ちょっと行って祓ってこい」  大体、正式に陰陽寮に入寮したわけでもなんでもない十三歳の半人前を、化け物退治に向かわせる晴明の神経がおかしい。しかも、お使いに行ってこい、というような軽やかな口調でだ。 「もっくん、そう思わないっ!?」  大髑髏に追いかけられながら、昌浩は晴明の無情を訴える。 「わかったから、とにかく反撃しろっ」  直立歩行も可能な物の怪は、しかし逃げるときにはさすがに四つの足で動物走りをしている。  あばら家と言っても、なにがしかの貴族の住居だったこの邸は、そこそこに広かった。  ぼろぼろになった屛風や几帳を蹴り倒し、御簾を撥ねのけ脇息を飛び越えて、昌浩と物の怪は逃げ惑う。  その後を、大髑髏が障害物をなぎ倒して追ってくるのだから、なかなかにぞっとする状況である。家屋を支える柱も数本真っ二つになり、みしみしと不穏な家鳴りが響きだす。 「わっ!」  昌浩が突然つんのめって、そのまますっ転んだ。暗がりで見えなかったが、なぜか畳が一枚置かれていて、その角につまずいてしまったのだ。 「あたたた」  もろにぶつけた額を押さえて、涙目になった昌浩の頭上を、急停止はさすがにできない大髑髏が飛び越えていって、柱に激突する。みしみしという不穏な音が、めきめきという不吉な音に変わった。天井からは、ほこりやちりがひっきりなしに降ってくる。どう考えても、邸倒壊寸前という状況だ。 「おいおい、しっかりしてくれ、晴明の孫」  呆れ顔の物の怪にひとにらみを返し、昌浩は跳ね起きると大髑髏と対峙した。  振り返って、大きな歯をカチカチと鳴らしながら、大髑髏がじりじりと近づいてくる。  昌浩は呼吸を整え、両手で印を結んだ。 「オンアビラウンキャンシャラクタン!」  大髑髏がぴたりと動きを止めた。  昌浩は首にかけていた数珠をはずすと、両手に巻きつけた。 「ナウマクサンマンダバザラダン、センダマカロシャダソワタヤウン、タラタカンマン!」  痛いほどの妖気が大髑髏からほとばしる。それは刺すように鋭く、昌浩の全身に向かってきた。が、彼の手にある数珠が大きく揺れ、その波動を跳ね返す。 「おー、少しは上達したか?」  茶々をいれる物の怪を片足で蹴り、昌浩は懐から一枚の符を抜き取った。 「謹請し奉る、降臨諸神諸真人、縛鬼伏邪、百鬼消除、急々如律令!」  言上もろとも放たれた符は、大髑髏のちょうど額に当たると、まばゆい閃光を放った。  すさまじい咆哮が響き渡った。髑髏が叫んでいる。 「……喉がないのに、どこから声が出てるんだ?」 「そういう問題と違うだろう!」  首をかしげた物の怪の場違いだが素朴な疑問に、昌浩は怒鳴った。  その瞬間、大髑髏の輪郭がぼやけた。  昌浩は目を見開いた。  大きな、それこそ一丈はありそうな髑髏。しかし、その実体は。 「うそっ、ちょっと待ってっ!」  さすがに度肝を抜かれた昌浩が後退った。  その正体は、幾百、幾千もの髑髏が、生きたいという念に引きずられ、寄り集まって変化した、正真正銘の物の怪だったのだ。  大量の髑髏が、昌浩を一斉ににらむ。さすがに息を吞む昌浩に、もっくんが講釈をたれた。 「いいか昌浩、物の怪っていうのはな、ああいうのを指すんだ。これ以降、俺のことを物の怪なんて呼ぶなよ、ちゃんと実物見たんだから」 「こんなときになんて冷静なっ」  半分泣き声の昌浩に、物の怪は涼しい顔をした。 「あ? あー、問題ない問題ない。だって、お前のさっきの術で、こいつら大髑髏でいられなくなったんだぜ? ということは、もう悪さする力が残ってないっていうことさ」  自信満々に語る物の怪に呼応したかのように、それまで昌浩をじっと凝視していた髑髏たちは、突然黒い煙に変化した。そして。  数千の髑髏だったものは、ごうごうと音を立て、突風をともない邸の調度品を吹き飛ばしながら、四散していった。  全てが飛ばされて何もなくなった床の上に、ぼろぼろになった符がはらりと落ちる。  昌浩は全身の緊張を解いた。寿命がちぢんだ。 「お、終わった……」  息をつきながらつぶやいたとき、不意にびしりという不吉な音がした。 「びし……?」  昌浩と物の怪が同時に顔を上げると、天井の梁が大きくたわんで亀裂が入っているのが見えた。  ばらばらとたくさんの破片が落ちてくる。もともと立っているのが不思議なほど荒れていたあばら家だ。昌浩たちの追いかけっこや、元髑髏散開の衝撃で、最後の耐久力が使い果たされてしまったらしい。 「わ────っっっ!」  倒壊する邸の中から、昌浩の絶叫がとどろいた。 「思うんだけどな、昌浩」 「……なんだよ」  ほこりまみれの物の怪が、感慨深そうに口を開く。 「やっぱり、運がいいっていうのは大事だよ。日頃の行いに関してはあんまり自信持てなくても、運がいいだけでやっていけるもんだって」  同じくほこりまみれの昌浩が、さすがに力なく座り込んでいる。 「俺の日頃の行いがいいから、梁にも屋根にもつぶされずにすんだんだって、どうして言わないかなぁ」  渋面を作る昌浩に、しかし物の怪は答えず周囲をぐるりと見渡した。  見事に倒壊したあばら家の残骸が散乱している。昌浩と物の怪がいた場所は、太い梁も柱も近くになかったため、つぶされることもなく、頭に少しこぶを作っただけですんだ。  が、昌浩は知っている。倒壊の瞬間に紅い閃光がほとばしり、現れた人影を。自分の頭上に落下してきた屋根を、無造作に払いのけたたくましい腕を。いくらなんでも、自分がほこりと破片をかぶったくらいですんだのは、運などでは決してない。  そして、全てが収まると同時に人影は消えて、自分と物の怪が残った。 「あーあ、あちこちぶつけちまった」  傍らで、顔をしかめながら大きく伸びをしている物の怪をじっと見つめて、昌浩はなんともいえない笑みを浮かべると、こらえきれなくなったように大きなあくびをひとつした。 「…ふぁ〜あ…ねむ…」  三日の徹夜にくわえて、四日目の晩は大暴れ。さすがに限界だ。安心したのも手伝って、まぶたが鉛のように重くてしかたがない。  ぐらぐらと船を漕ぎ出した昌浩に、物の怪が慌てて立ち上がった。 「こらこら、寝るな。こんなところで寝たら、虫に食われるぞ、節々痛くなるし、…て聞いてないだろうっ」 「うー」  枕にぴったりな木片に頭を乗せて、昌浩はそのまま夢の世界に旅立ってしまった。  物の怪は容赦なく昌浩を揺さぶる。 「でぇいっ、起きろ晴明の孫っ! 孫ったら孫っ!」  しかし、叫ぼうとも揺さぶろうとも、昌浩は健やかな寝息を立てたまま、絶対に目を覚ましはしなかった。禁句である「晴明の孫」を連呼されても反応しないのだから、完全に熟睡だ。 「捨ててくぞ、ちくしょーっ」  物の怪の情けない声が木霊する。  藍色だった東の空は、薄紫に変わろうとしていた。  気がつくと昌浩は、茵の上にころがっていた。 「…はれ?」  起き上がって周囲を見まわしてみる。見知った天井と調度品。日に焼けた御簾に屛風、風に揺れる几帳。はしのほうに積み重ねられている大量の書物に巻物。  間違いない、自分の部屋だ。  彼の傍らでは、物の怪が腹を見せて仰向けになって寝ている。いくらなんでも、無防備すぎるきらいがあるのではなかろうか。仮にも物の怪が腹を見せて、そもそも寝るのか、普通。  思わず額に手を当てた昌浩だったが、心配ないのかと考え直した。  この邸にへたに手を出せば、大陰陽師安倍晴明が黙ってはいない。更に、ここには晴明の息子である吉昌もいる。天敵である陰陽師がぞろぞろといるこの邸に攻撃してくる妖怪は、さすがにいないのだ。  昌浩は自分の姿を見下ろした。  身に付けているのは単一枚。着ていたはずの狩衣も狩袴も、ぐしゃぐしゃになって置いてある。申し訳程度にかけられていた衣は、おそらくふたの外れた唐櫃から適当に引っぱりだしたものだろう。  紐でくくられた髪の先はほこりっぽく、よくみれば土がついている。  などなどという状況をまとめて分析してみた結果、どうやら自分は、物の怪にここまで引きずられて帰ってきたらしい。物の怪の小柄な身体で背負ってくるのはさすがに無理だったのだろう。  それにしても。 「別にあのままあそこで寝てても良かったんだけどなぁ」  かりかりと頭をかいてひとりごちると、それまで寝ていたはずの物の怪の足が、昌浩のわき腹を蹴りつけた。 「うぉっ」  奇襲にあった昌浩は、攻撃された場所を両手で押さえながら物の怪を見下ろす。  ひょいと起き上がった物の怪は、仁王立ちになってふんぞりかえった。 「礼を言え、礼を。殴っても蹴っても起きないお前を、俺は一生懸命運んでやったんだぞ」  しかし、昌浩は物の怪のいうことを聞いていない。ぐしゃぐしゃのまま放置されていた狩衣と狩袴を広げて首をかしげている。 「うーん、汚れてるけど破れちゃいないなぁ。引きずってこられたからには覚悟してたんだけど。別にどこも痛くないし」 「お前なぁ、誰かが話しているときはちゃんと相手の顔を見て目を見て話を聞きましょう、て教わらなかったのか」 「あ、もしかしてもっくん、板か何かに俺のことのせて来たんだ? あったまいいなぁ」 「あ、そうそう。さすがに着物破けたらかわいそうだと…て、ちがうっ」  ついつい昌浩の話につられてしまった物の怪は、途中ではっと我に返るとわめいた。 「いくら五月半ばとはいえ、明け方は冷えるからと思っていっしょうけんめー運んでやったっていうのに、昌浩、お前って奴は、血も涙もない奴だな。ああ、昔はあんなに可愛かったのに」 「昔っていつだよ、数ヶ月前は昔とは言わないって」  昌浩は首を傾けて天井を見上げた。とにかく眠かったからなぁと心中でつぶやいて、でも、と昌浩は笑った。 「もっくん優しーな。ありがとう」 「誠意が見えない礼の言い方だなあ」  半眼になる物の怪の背を軽くたたいて、昌浩は拳を握り締めた。 「さて、大髑髏も退治たことだし、大威張りでじい様に報告できるぞ」  見たかたぬき爺め、俺はちゃんと祓ってきたぞ。 「──それなんだがな、昌浩」  昌浩の横でおすわりをしていた物の怪が、上目遣いに見上げてきた。 「あれ。晴明から」 「じい様から?」  物の怪は文机の紙片を指している。着物を放ってそれを手に取り、達筆な文字を目で追う。 「…………」  だんだん昌浩の顔が剣吞になり、紙片を持つ手に力がこめられ紙にしわが寄る。  やがて彼は、ふるふると肩を震わせ始めた。  ぐしゃりと握りつぶされた晴明からの文、それにはこのように書かれていた。 『ひとりで祓ったにしても、あばら家倒壊はいかんなぁ。夜中の騒音公害で近隣住民に迷惑をかけたことをちゃーんと自覚するように。まだまだ半人前だのう。ばーい晴明』  つまりはあれか。晴明は遠見の術か何かを使って、孫の動向の一部始終をいつものように高みの見物をしていたと、そういうことか。 「……」  触らぬ神になんとやら。  心得ている物の怪は、昌浩と距離を取るためにそろそろと後退る。  そして昌浩は、丸めた文を壁に向かって振りかぶりながら叫んだ。 「あんのクソジジイ─────っっっっ!」     2  五月末の吉日。  かねてから準備のすすめられていた、安倍吉昌が末子、安倍昌浩の元服の儀が、ようやく行われることになった。  通常、貴族の子弟は十一歳から二十歳の間に元服をすませる。大概は十一歳になったらすぐに元服し、帝より冠位を賜って出仕、となるのだ。  後々の出世にも関係してくるので、元服は早いほうがいい。昌浩のように、十三歳まで童姿、というほうが少ない。  元服は大概正月に行われる。昌浩の昔馴染みも、先年の正月に元服し、すでに出仕している。 「つい