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作者:糸森環
类型:乙女向 书籍样本 日文
出版:2016-10-02(角川书店)
价格:¥580 原版
文库:角川Beans文库

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令嬢鑑定士と画廊の悪魔 令嬢鑑定士と画廊の悪魔 糸森 環 角川ビーンズ文庫 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載したりすることを禁止します。また、 本作品の内容は、底本発行時の取材・執筆内容に基づきます。  目次 序章 しろがねの娘 一章 くろがねの星 二章 ひまわりの声 三章 しきさいの森 四章 せいじつな紫 五章 まなざしの音 終章 あかつきの魚  あとがき  青から、暁。黎明の色を瞳に閉じ込めた旅人の絵は、リズ・ミルトンの宝物だった。  彼は遥か彼方の地から訪れた異国人だ。  当時のリズは、彼の名を正確に発音できなかった。難しい言語だったのだ。 「夜明けの瞳の旅人さん」と呼ぶうちに、彼の本当の名を忘れてしまった。  だが弦楽器を弾いたような、美しい響きを持っていたことだけは覚えている。  東方からの客人は幸運の使者。そんな迷信がリズの村では生きていた。  祖父母は、この地でしばらくの休息を望んだ旅人に、快く部屋を貸した。  旅人は、親切で陽気な男だった。青白い顔をした病弱なリズを幽霊扱いし、からかってくる意地悪な村の子たちとは違う。こちらの国の言葉を流暢に操って、旅先で体験した不可思議な出来事の数々をおもしろおかしく聞かせてくれる。  彼は絵描きでもあった。  村に留まったのは一月くらいか。その間に数点の作品を仕上げた。  そして一枚、リズに贈ってくれた。  今にして思えば、渡された絵は滞在費代わりだったのだろう。  彼はその絵に『しろがねの娘』という題名をつけた。  リズがモデルだ。  しかし画布に描かれていたのは娘ではなかった。  そもそも人間ですらない。  魚だ。  一匹の魚が白銀の尾びれを揺らめかせ、星月夜を優雅に泳いでいる。  リズとの類似点を無理やり上げるなら、色彩だろうか。リズの髪も、星の光を束ねたような白銀だったので。  誰かに呼ばれて振り向いているかのような構図だ。描写は極めて精緻。命が吹き込まれた輪郭線、瑞々しい鱗、絹めいたひれの滑らかな動き、質感を生む明暗。  魚は、青みがかった濃密な夜の色を映してささやかに輝いている。  旅人の筆遣いは卓越しており、絵描きとしての才は疑う余地がない。何十枚、何百枚の画布と昼夜向き合い、習作を重ねてきた者の確かな技術がそこにある。  だが、画布を覗き込んだ祖父母は顔をしかめ、批判の色を目に宿した。  孫娘を魚にたとえられたせいではない。  その絵は神々しく幻想的だったが、同時に、どこかしら卑猥な雰囲気も漂わせていたのだ。  透明感が滲む長い尾びれは、たっぷりとしたドレスの襞を思わせる。  夜会に現れたとびきり美しい貴婦人が、男たちの情熱的な視線に気づいて、振り向いているようでもあった。  リズ自身はこの絵を気に入った。  旅人は村を去る前に、庭に生えている楢の木の下で不思議な話を聞かせた。夏の訪れを予感させる晴れた日だった。 「リズ、もしもこの先、眺めていて不安に感じるような絵があったら、すぐに目を逸らしてくれ」 「どうして?」 「それは歪画だからだよ」 「ひずみが、ってなに?」 「予期せず加えてしまった瀆神の図様……神様の悪口に当たるシンボルを、絵描き本人も気づかずに描いてしまっている作品のことだ」 「悪い絵?」 「そうだね。神様を怒らせてしまう。でも、多くの人は歪画の存在を知らない」 「騙し絵みたいなもの?」  旅人は笑った。日に焼けた浅黒い肌に、笑い皺がくっきりと浮かぶ。 「少し似ているかな」  ただね、と彼は表情を改めた。 「騙し絵は安全だけど、歪画は怖いんだよ。神様の悪口が描かれているから、悪魔が好んで住み着いてしまう。『悪魔の隠れ家』になってしまうんだ」 「夜明けの瞳の旅人さん、あなたが描いてくれたこの絵も『歪画』なの?」 「これは違うよ」 「私を魚にたとえて描いたのはなぜ?」 「君が『魚座の子』だからだ」 「私は魚座じゃない。蟹座なのに」 「生まれ月の星座は関係ないんだよ」 「じゃあ、なに?」  旅人はすぐに答えてはくれなかった。身を屈めると、顔料の匂いがする優しい手でリズの頭を撫でる。ざらざらしていて、分厚く、硬い感触だった。屋敷の庭師の手を連想させた。それから鍬を持つ農民の手を。筆を持つばかりではない。労働を知る者の手であり、荒天の日々を耐え忍んできた手でもあった。そんなふうに、彼が積み重ねてきた日々を感じさせた。 「リズは、人が気づかないモノをよく見るだろう?」 「なんのこと?」  不意打ちの問いかけに、肩がびくっとはねた。 「ごまかさなくてもいい。君の祖父や祖母には、この話をしたことは秘密にしておくよ」 「……本当?」 「約束する」  リズはおそるおそる旅人を見上げた。 「妖精を、見かけるの。森のあちこちで」 「森だけ?」 「ううん、屋敷の中でも時々見つける。あとね、よくわからない靄のようなものや、いるはずのない獣の足跡も。雨なんて降ってないのに、床に濡れた足跡がついてる」  彼は答えなかったが、その表情を見れば、リズの話を真剣に聞いてくれていることがわかる。  それに勇気を得て、先を続ける。 「でも、お父様もお母様も見えないみたい。私一人がお祖母様の屋敷で暮らすことになったのは、病気を治すためだけじゃないってこと、知ってる。お姉様方が私を怖がるから」 「そうか」 「お祖母様たちも、私の言葉を信じてくれない。『妖精なんていない、そんな噓をついちゃいけません』って、とても怖い顔をする」  信じてもらえないのはつらい。  皆から、虚言癖のある子だという目で見られている。 「でも、見たいと思っているわけじゃないのに、見えてしまう。私はどこか、おかしいの?」  旅人の絵に惹かれたのは、夜空を泳ぐ魚、という現実にはありえない特殊な世界が描かれていたからだ。  旅人もひょっとすると、自分同様、皆が見えないモノをその目に映しているのではないか。リズはそう期待した。 「なにもおかしくはないさ。君は魚の素質を持っている。そのせいで、不可思議な存在が見える」  旅人は、静かな眼差しで言った。 「魚は、神が天から解き放った聖徒の仮の姿だ。星盤から胎盤へ。黄道を泳ぎ、十二の宮を通り抜け、やがて人という座の中におさまった」 「聖徒……?」 「君は、隠れ家に潜む悪魔を見抜く、魚座の子なんだよ」  時は流れ──十七歳の誕生日。  リズは、思いがけない事態に直面していた。  そもそもの始まりは、誕生日の一週間前のこと。  母親のヴィルマに「ここに五枚の絵があります。さあ、この中から好きな絵を一枚選びなさい!」と急かされ、その通りにしたら、なぜか婚約者が決まってしまったのだ。  わけがわからない。  五枚とも時禱書の半分ほどの大きさだ。  三色刷りという点からして、最新の印刷技術で作製されているのがわかる。  絵柄は、梨、ライム、葡萄、杏、林檎と、果物で統一されている。  それがなんで婚約者選びに繫がる!? とリズは内心焦った。  選んだ絵柄はライムだ。  その時は単純にこう考えた。誕生日に親族へ配る焼き菓子の種類を決めさせる気なのだろうと。甘かった。ヴィルマの行動力と推察力を侮ってはいけなかったのだ。  都の屋敷に戻るよう命じられた時点で、なにかあるんだろうとは思っていた。  結婚という言葉が脳裏をよぎらなかったといえば噓になる。  だが、避けたい話題だ。  リズが自身の結婚に消極的なことに気づいて、ヴィルマはわざわざこんな絵を準備したに違いない。  リズは絵画が絡むと、見境がなくなる。油彩、水彩、フレスコ、とにかく絵が好きだ。  画集を開けば顔が蕩けるし、壁画を見れば軽く一時間はそこに座り込む。  うまれつき身体が丈夫なほうではなかったため、リズは昨年まで祖父母が暮らす気候の穏やかな地で療養していた。  今もまだ健康体とは言いがたい。  だからこそ若さが失われる前に、まともな嫁ぎ先を見つけたい──ヴィルマがそう焦る気持ちもわかる。  高貴な立場の男たちが結婚相手に望むのは、まず健康体であるかどうか。家の存続のために跡継ぎを残す義務がある。  この時点で大半の貴族は、リズを花嫁候補から外す。たとえ現皇帝の寵を受ける伯爵家の令嬢であってもだ。家を背負う長子には振り向いてもらえない。  それなら狙うは、次男か起業家、宮廷騎士。  つまり、誇りか財か将来性か。あるいは国の内外に確かな人脈を持っているか。  欲張らず、どれかひとつに絞れば、家名につられて名乗りを上げる者も出てくる。 「──エミル卿はカロティオン家の次男で、聖獅子騎士団第三遊撃隊の中隊長を任されているのですって。この皇都にあるグリコス王立学院聖騎士団でもね、臨時士官として見習い騎士の指導をされているのよ」  秋の花が香る庭園に、ヴィルマの愛想のいい声が響く。  ヴィルマ自ら職人に指示を出して作らせた、自慢の庭園だ。  植栽する木々を厳選し、花々の色合いにもこだわった。奇麗に刈り込んだ緑の絨毯、そこに花壇を並べ、丸形のトピアリーを配置した。中央に設けている装飾用の煉瓦の尖頭アーチをくぐった先には、晩餐会用の長卓が置かれている。  今、リズは皆とともに、そこに座っていた。一応、この誕生日の主役だ。 「ええ、カロティオン家は、二百年前に起きた蛮族の侵略戦争で勲功を立てられてね、いち早く名誉騎士の称をいただいたとか──」  ヴィルマの話は続いている。  これまでの誕生会は、ヴィルマや姉たちの他、付き合いのある親族のみを招待していた。  招待客が増えると、挨拶のみでも身体に負担がかかってしまう。  しかし今回の顔ぶれは少々変化が見られた。  欠席した父の代わりに、『お見合い相手』が参加している。 「もちろん、エミル卿ご自身もすばらしい騎士よ。第二皇女に忍び寄る暗殺者の影に気づき、見事捕縛を──」  ヴィルマの声を聞きながら、リズはメイン料理後の焼き菓子を並べた長卓の向こうにある青年の顔を盗み見た。 『お見合い相手』の年は二十代後半。すっきりとした栗色の短い髪、明るい青の瞳。  そして、かなり胡散臭い──いや、爽やかな微笑。騎士団の男というだけあって、細身ながらも鍛えられた体つきをしている。装飾を抑えた藍色の貴族服は、よく見れば上等の生地だ。クラバットのピンや袖のボタンも派手ではないが凝っている。  さすがはお母様、いい男を候補に選んでいる。  が、納得できない。  貴族界の事情には疎いので、残念ながらカロティオン家がどの程度の地位にあるのかさっぱり判断がつかないのだが、少なくともヴィルマの紹介に噓はないはずだ。  この若さで中隊長。立身に有利な手柄を立てている。美男子。服装の趣味も悪くない。  優良物件すぎるじゃないか。  たとえ次男だろうと、こんな男前で性格も要領もよさそうで将来も有望だろう青年騎士が、私の前になぜ現れるの。彼なら引く手数多のはず。  健康面の問題はともかくも、リズは、黙っていれば繊細な美人だ。  つやめく白銀の長い髪、雪で磨いたような白い肌。黒い宝石と讃えられる濡れた瞳。それを縁取る睫毛の色は淡く、震える羽のよう。  リズを見慣れている家族でさえ、その美貌に視線が釘づけになる時がある。  だが実体は、絵画のためじゃなきゃ一歩も動きたくないという根暗な自堕落令嬢だ。  基本、表情は死んでいる。日陰は天国、太陽滅びろ。親族の中で一番慕っている叔父のハインなどは、リズの血は赤い顔料でできていると断言したことさえある。  リズが引きこもり生活を好むようになったのは、それまでの環境もいくらか影響している。  遠慮を知らない村の子たちに幽霊とからかわれ、必死に泣くまいとした。他人には見えないモノを見ているのだと、悟られまいとした。  月日を重ねるうちに妖精の姿は目に映らなくなったが、その頃にはもう普通の娘のように明るく笑うことができなくなっていたのだ。  このままではいけない気がすると悩み、何度か鏡の前で表情の練習をしたこともあるのだが、無駄なあがきだった。どう考えてもにやりと笑う不気味な魔女にしか見えなかった。  以来、開き直って陰気な表情を貫いている。 「──リズ、ほら、恥ずかしがって俯いてばかりではいけませんよ」  ヴィルマの呼びかけに、リズは意識を現実に戻した。 「お許しくださいね、エミル卿。この子は母の私が言うのもなんですが、本当に慎み深く謙虚な子ですの」  優しい微笑を浮かべているが、こちらに投げられた母の視線は猛禽のように鋭く険しい。ぼんやりしていないで早くこの男に一生分の愛嬌を振りまけ! とその目ははっきりリズを脅している。  お母様、むちゃを言わないで。  この男は眩しすぎます。笑顔もお母様以上に胡散臭い。 「ええ、ヴィルマ夫人。星の乙女と噂の可憐なリズ嬢と、こうしてお会いできるだけでも私は果報者です。本当に息がとまりそうな美しさだ。夫人とよく似ておられますね」 「まあ」  エミルにお世辞を言われ、ヴィルマは少女のように頰を染めている。内心では「もっと褒めなさいよ、若造が!」と舌打ちでもしていそうだ。  リズはぬるい目をヴィルマに向けた。 「金銀の輝きすら、リズ嬢の前ではかすんで見える。お抱えの宝石商も、頭を抱えているのでは?」 「エミル卿ったら、まあ、まあ! でもね、仕立屋が唸っていたのは事実よ。どれほどベールを重ねてもこの子の美しさは隠せないって」 「そうでしょうね、よくわかります」  今日のリズは淡いベージュと白を基調としたドレスを着ている。  先日屋敷に届いたばかりの新作で、職人たちも満足の仕上がりだ。上腕部分は細く、袖口は大きく開かれている。袖や胸回り、スカートのドレープにもふんだんにレースが使用されている。首には宝石付きのチョーカー。ヴィルマのコレクションのひとつだ。誕生日だからということで、譲ってくれた。 「できれば、リズ嬢。私の瞳にあなたを、あなたの瞳に私を映すという栄誉を与えてはくださらないか?」  視線をエミルに戻し、首を傾げる。 「既に今、お互いを目に映しています」 「もっと長い時間、お許しいただけたらと」  エミルが楽しそうに笑う。  リズは眉をひそめた。まったく胡散臭い。  こうもぽろぽろと軽い言葉が出てくるってことは、よほど女慣れしているのではないか?  ヴィルマが、頼むからうまく答えなさい! というような不安たっぷりの顔を見せる。  わかった、お母様。頑張ってみる。 「長い時間と言いますが、目の潤いを保つためにも瞬きが必要なので、いつまでも開いていることはできません。せいぜい一分くらいが限度かと思いますが、その間見つめ合いたい、という意味に受け取っていいんでしょうか。一説によると男女で瞬きの回数が違うのだとか。緊張状態の時には多くなるらしいですね。あと、異物が入るのを防ぐために、開く時より閉じる時のほうが瞬きの速度は速いそうですよ。ちなみに一分間で二十回前後という説があります。一生の内で億を超えるんですって。ただこれって、死ぬ年齢によって差が出るんじゃ──」 「リズ!! あなたったらまたコモンズ博士に妙な雑学を吹き込まれたのね! ごめんなさいねエミル卿、この子の主治医は変人……いえ、好奇心旺盛で、とても話し好きな方なの。博士に付き合ううちに、覚えてしまったのね」  ヴィルマが強引に割り込んできた。  コモンズ博士とは誰だ。そんな主治医は当家にいない。 「リズは真面目で聞き上手だから、博士もつい話し込んでしまうようで! でも今はもっと楽しい話をしましょうね。わかるわね、リズ?」  話題を変えたほうがいいというのは、にこやかなのに恐怖しか感じないヴィルマの表情から痛いほど伝わってきた。  長卓についている他の親族は絶望的な目つきでリズを見ている。叔父のハインと二人の姉は噴き出すのを懸命に堪えているようだった。  なんとかしなきゃいけない。リズは別の話題を探した。 「ライムはお好きですか」 「はい? ライムですか?」  唐突な話題転換に、エミルは困った顔をした。 「もしかしてエミル卿は驚異のライム好き男なんじゃないかなと思いました」  ここで叔父のハインが長卓に突っ伏した。  姉たちはハンカチで口元を押さえ、俯いている。 「あるいはライム畑をお持ちとか。それともライムで人生が変わったという経験がありましたか?」 「え? いえ」 「おかしい。じゃあなんでお母様の絵にライムが描かれていたんだろう」 「なんですって? 絵?」  不思議そうにしているエミルの顔をじっくりと眺める。  リズが五種類の絵の中でライムを選んだ理由は、なんとなく気になったからだ。もしも他の絵を選んでいたら、別の男性が選ばれていたのだろうか。 「エミル卿の名前が、うちの家名と似ているから? でもそれだとライムとは関係がない。……あ、待って。やっぱり名前が正解ですよねお母様。『emil』の文字を、逆から読むとライムに──」 「まあリズったら!! おもしろいことを思いつくのね! ええ、この子ったら果物がとても好きなのよ!」  ヴィルマが涙目になって弁明している。  お母様、これでも私、やり遂げた感でいっぱいですが。  絵画に関する内容以外でこんなに他人と話したのは数ヶ月ぶりだ。  根暗令嬢にきらきらした恋話を期待するのは間違っている。  だいたいこの男が眩しすぎる。  テンペラ画の耐久性の研究内容についてとか、腐りかけの食物の描き方についてとかなら徹夜で語れる自信があるが、それはたぶん、絶対にしてはいけないんだろう。 「リズ嬢は話題の豊富な楽しい方ですね。次の会話が予想できず、興味深い」  エミルが笑いをこぼして言う。 「え、ええ! リズは社交的で話し好きな子なの!」  お母様、さっきは私を慎み深い謙虚な子だと噓をついたんじゃないですか。真面目で聞き上手とも。 「確かリズ嬢は、美術に対して造詣が深いと聞きましたが」  エミルの問いかけに、リズは身を乗り出した。  その話題でいいなら、喜んで。 「テンペラ画は卵派ですか、牛乳派ですか。私はやっぱり王道に卵推しです」 「卵?」 「あのこっくりとした鮮やかながらも深みのある発色がたまらない。塗り重ねができて劣化もしにくい。壁画にはあまり向いていませんが、美術界における色彩の帝王ではないかと思っています。私、いっそ養鶏場を経営しようかと──」 「リズ!!」 「はい、お母様」 「そろそろあなた、コモンズ博士がお見えになる時間よ! 少し熱があるのですから、無理をしてはいけないわ!」 「いえ、今日は珍しく体調がよく──」 「熱が! あるのよ!!」 「はい」 「エミル卿、本日は娘のために足を運んでくださって心より感謝いたしますわ。ええ、改めてお礼の品を贈らせていただきますわね」  ヴィルマが有無を言わせぬ笑顔で誕生会を終わらせた。普段のリズ以上に、母の目は死んでいた。  視界の端に、ハンカチで口を押さえて笑う姉たちの姿が映った。  誕生会終了後、誰もがエミルとの『お見合い』は失敗したと確信した。  リズ本人でさえ素直にそう思った。ヴィルマなどは三日も部屋にこもり、出てこなかった。  しかし、さらに三日後。  カロティオン家から、リズとの正式な婚約を求める封書が届いた。 「それでリズは、拗ねて僕のもとに避難してきたわけか」 「拗ねてはいないけど」  リズは今、叔父ハインが暮らしている館に遊びに来ている。 「ヴィルマ姉上が縁談をまとめようと、張り切っているんだろう?」 「うん」  ハインは、長椅子で膝を抱えるリズに、ココアを差し出した。  それを両手で受け取り、一口飲んでから、ぼうっとする。  その様子を見たハインが苦笑し、隣に腰かける。  ハインの館は、夏季にミルトン家の者がすごす皇都スプラルグルの屋敷から三区画離れた場所に建っている。馬車を使えば、外出に不慣れなリズでも一人で行き来できる距離だ。  館の以前の所有者は年配の貴婦人で、華美を好まなかった。だから建物自体は小振りで、窓の装飾も控えめだ。平屋根の二階建て。赤煉瓦の壁は半分以上が蔓草で覆われている。  派手ではない分、あたたかみがあって居心地がいい。 「……この部屋の書物、前より増えた?」  ハインの書斎は、来るたび物の位置が変化する。主に、床に積まれている書物が。 「ああ、本の市場で希少な画集を手に入れたんだ。見るかい?」 「あとでいい」  ハインは画商だ。皇都芸術庁の認可を得た正規の業者ではない。主な顧客は当然ながら貴族。市井に埋もれている才能の原石を発掘し、その育成と支援に力を注いでいる。  キト・エズィラ皇国は、五十年前にひとまず終結した大規模な宗教戦争以後、芸術文化が賑わい、様々な分野で発達を遂げている。  詩篇や神々の誓約を包括する古言聖書と、聖徒の伝記や福音書を中心に編纂された密聖書、どちらが本物の聖典かを巡る戦いで、数えきれないほどの貴重な文化遺産が破壊された。その復興活動が今日の芸術革命に繫がっているのだ。  この『聖戦』は長い歴史の中で、懲りずに何度も繰り返されている。  学者は口を揃えて言う。起こるべくして起こった戦争だ。裏には仕掛け人が存在する、それは神自身に他ならない。芸術とは宗教の鏡であり、その文化が低迷すれば、人々の信仰もまた濁る。  だからその御手で歴史を揺さぶり、新たな時代へ向かわせるのだと。  学者の主張が正しいかどうかは知らないが、皇都スプラルグルは人々が休息を取る春の復活祭、夏の七日祭、秋の黄金祭、冬の十字祭といった大祭期間でさえも、道のあちこちでギャラリーが開かれる。他国からは、不眠芸術国家と揶揄気味にたとえられるくらいだ。  老いも若きも美術品に傾倒する国だから、ハインのような非公式の画商が皇都中に溢れている。平民出身の作家にとっては一攫千金の機会でもある。商人にとっても。  価値など知らずとも絵を飾れ、が成金たちの合い言葉。一流の者は芸術分野にも明るい。貴族の支援を望むなら投資を惜しんではいけない、というのである。  リズは、ハインのおかげで、絵画に興味を持ったといっても過言ではない。  身体が弱く、屋敷に閉じこもってばかりだったリズを案じ、気晴らしになればとハインは一冊の画集を贈ってくれた。それが始まりだった。  絵画は、いい。噓をつかない。  幻の妖精とは違って、誰の目にもはっきりと映る。何年経っても変わらずそこにあり続ける。不変を謳う芸術だとリズは思っている。 「……リズ、エミル卿は嫌いかい?」  隣に座っていたハインが、リズの真似をするように長椅子に両足を乗せ、笑いながら問う。彼の顔をしげしげと見つめる。ヴィルマとはあまり似ていない。  ちょっと眠たげな、甘い顔立ちだ。薄茶色の瞳は、明るい場所で見ると黄金に変わる。瞳と同じ色の髪も稲穂のように輝く。 「気に食わない男だった?」 「目映いとは思った。嫌いなのか好きなのか、よくわからない」 「結婚はしたくないか?」 「できるなら」  大病を患っているわけではないが、ちょっと走り回っただけでめまいを起こす。熱を出して寝込む。こんな脆弱な自分がはたして誰かの妻になり、幸福な家庭を築いていけるのか。  騎士に嫁いだ女の多くは、使用人任せにせず自分で料理をすると聞いた覚えがある。リズは楽器の演奏なら得意だが、料理の才能はない。 「結婚するっていう実感が持てない」 「まあ……独身の僕が言ってもあまり説得力がないが、わりとなんとかなるものだよ」  ハインは楽しそうな顔をした。モテるだろうに、なぜ叔父は妻